可能性の歯車を動かせ

「あの選択をしたから」 投稿コンテスト提出作品

高校エピソード

高校生の時、大好きな先輩がいた。憧れの先輩だった。

春の日差しがさらさらと頭上に降り注ぐ中、高校に進学した。そこは県内有数の進学校で、晴れて入学できたことに大きな安堵を覚えていた。
この時までは、まさしくレールに乗った人生をしていたと思う。人が「すごい」という場所を目指し、「すごい」といわれるために何事も挑戦してきた。

当初、私は高校では部活に入らないという「選択」をとっていた。しかし、クラスの陸上部員の多さに流され、気がついたら陸上部に入部していた。中学校までは卓球部だったから、思い切った転向であったと思う。(気づいたら入部したと、軽々しく決断したように書いたが、その時は頭が割れるほどに悩んだ思い出がある。)

入部してからは周囲に勝てない自分に苦しむこととなった。勉強では塾に入って予習した状態であったり、部活では前もって少年団で活動していたから、負けることそれ自体に免疫が無かった。

そんな中、放課後部活に行くと、一人で黙々と練習している先輩がいた。その時は、その先輩がどれほど実績のある人かを知らなかったが、同期に勧められ、家でその先輩の試合の映像をYouTubeで見た。私は、とてつもない衝撃を受けた。

そこには県大会というツワモノぞろいの中で周りをぐいぐいと引き離し、ぶっちぎりで優勝する先輩の姿があった。しかも、先輩も高校から陸上競技を始めたらしく、自分と似た境遇を持つ先輩は自分にとって大きな憧れになった。そのレース映像は少なくとも200回は視聴した(笑)

後日再び話をする機会があり、興奮冷めやらぬまま尊敬の想いをぶつけると、軽くこう言われた。
「お前もできるよ。なんか俺と似てるし(笑)」
この一言で完全にやる気スイッチが入ってしまった。これまでは、負けていたことを卓球部出身であるという環境のせいにしていたが、それを辞めた。
その日から、私も先輩と同じようにインターハイに絶対出場するという目標を掲げた。ある種の選択であった。

そこからの約二年間は人生でこれまでにないほど部活に打ち込んだ。練習では死んでしまうのではないかと思うくらい走った。先輩が長距離も走っていたと聞いていたから、練習後に帰宅してからも毎日三キロ走った。
また、高校から新たに部活を始める後輩の憧れになりたかった。

そしてついに迎えた最後の高校総体は、コロナで中止になった。
他のことを何もしていなかった自分は、あまりにも無力な状態で、学校閉鎖で人とも話せなかったことも更に追い打ちとなり、病んでしまった。

実際のところ、インターハイに出場するのは厳しかったと思う。インターハイの一つ前の北関東大会に出場するのがやっとのレベルだった。

しかしながら、今でも陸上が好きで大学でも続けることになったので、当時の「陸上部に入部する」という選択は間違っていなかった、と胸を張って言える。また、「インターハイに行く」という目標を掲げて日々努力をしたという選択も、これまでそれほど「アツく」なれたことが無かった自分には良い経験になったと思う。

環境のせいにしたくなる私たち

話題は変わるが、最近、環境のせいにしたくなる人達が増えているのではないかと思う。
篠原さんの投稿にもあるように、「親ガチャ、配属ガチャ」といったように自分ではどうしようもないことを簡単な言葉で表現し、すぐに諦めてしまう風潮が見受けられる。

しかし、そこまでこの世界には「ガチャ」がはびこっているのだろうか?
そこまで悲観的な目線で「ガチャ」を見る必要があるのだろうか?

私はそう思わない。

もしレールに乗った人生を肯定する、つまり環境が全てであるのであれば、そこに「私」の存在はない。言い換えると、わざわざ「私」である必要がないのだ。
しかし、逆にこれを捉えれば、それぞれの人生に選択という名の意味付けを行うことが出来れば、それはまごうことなき、「私」だけの人生となるのだ。つまり、「何パーセントこれまでの現状から変えられるか分からないけれど、やってみる。」という、言わば選択という名の挑戦をすること、それが人生の意味となるということだ。

とある決断に関して、選択しなかった方が良かったのではないかという人がいるかもしれない。しかし、当たり前だがそれを比較検討することはできない。だからこそ、一つの選択肢を選んだこと、選ばなかったことなどではなく、これまでの現状を自らの選択によって変化させたこと、それ自体が喜ばしいことなのではないか。

私の例で言えば、先輩の日々の選択によって、私は「インターハイに行く」という選択をし人生が変化した。同じように、私の選択によって後輩の人生も選択を迫られただろう。

このように、それぞれの選択は周囲の人に影響を与えるものだと私は思う。
その様子はまるで大きな歯車のようである。それぞれ歯車の大きさは異なるが、可能性というトルクを着実に伝えている。

上から目線になってしまい恐縮だが、これを読んでいる読者の方々も、環境に支配されてしまっている人々をそこから抜け出させて選択の歯車に組み込み、人生の新たな可能性を発見できるようにしていただけたら、と末筆ながらに思う。

ここまで長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。





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