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旅の記憶 1995・春 上海〜西寧


29年前の春
僕たちは上海から西寧に向かっていた

上海に着いたその日
僕たちはチベットの玄関口
西寧行きのチケットを求めて街を彷徨う
当時は火車(当時は機関車だった)
のチケットを手に入れるのは
とにかく大変だった

外国人がチケットを手にいれるには
市内に何箇所かあるチケット売り場を
ひたすら歩いて回るしかなかった

今と違って、ネットでチケットの一元管理を
しているわけではなかったようで
売り場に行かないとチケットがあるかどうかわからなかったし

需要と供給のバランスが悪いせいなのか
ダフやが大量に買い占めているせいなのか
理由は定かではないが
とにかく販売開始の時点で
売り切れていることも多かった



車窓の窓から

上海市内にあるチケット売り場を
何件もはしごして龍門賓館というホテルの
外国人用の窓口でようやくチケットが
買えることになった

ただ問題は一番高い軟臥(ナンガ)の
チケットしかなかったこと

当時の中国の火車は

硬座(2等席)
軟座(1等席)
硬臥(2等寝台)
軟臥(1等寝台)

の4種類の席があって
当然快適さと値段に違いがあった

理想は硬臥だったが、その時あったのは
硬座(200元)と軟臥(800元)のみだった

2泊三日の電車旅で
リクライニングも全くしない
硬座の席は流石にきつい

しかも西寧行きの火車は
2日に1便しか出ておらず
2日後のチケットが手に入る保証もないのだ

※チケット発売の朝イチに並んでも
売り切れと言われることがよくあったのだ

悩んだ挙句
僕たちは800元出して
軟臥のチケットを手に入れた

あまり元気のないミノ なぜならば・・・


ちなみに今回の旅は
これまでの旅と違って
僕には連れ合いがいた

大学の友人の
ミノとカトー

2人は、僕のシルクロード旅の話を聞いて
自分たちも行ってみたいと
今回が初めての海外旅行で
僕と一緒に鑑真号で中国入りしていた

もう1人ドーという後輩が一緒だったが
彼は上海で僕たちと別れて
雲南省に向かった


貸切なので買い込んだ食料をテーブルに並べている


そして僕たちは西寧を目指す

上海に着いた翌日の夜8時
僕たち3人は
上海駅から西寧行きの火車に乗り込んだ

実はこの時、ちょっとした事件があった
その時の上海駅は、テロ対策なのか
空港さながらに駅に入る前に
荷物をX線の機械に通さなければならず
そのため僕たちは
フィルムが感光しないように
保護バックに入れているのだが
ミノはまさか鉄道駅で
X線検査があるとは知らずに
保護バックにフィルムを
入れていなかったのだ

これは僕にも責任があって
夜の上海駅前でモタモタするのは
スリやひったくりのリスクもあるから
「 え、ここで荷物チェックがあるの? 」
と驚く彼に、このチェックは避けられないよと立ち止まらずに通り抜けてしまったのだ

保護バックは必要だから
忘れずにねと、旅行前に伝えていたから
てっきり入っているものだと
思いこんでいたのだ

車窓の窓から 遠くに山が見える


彼は元々の写真好きで
僕と違ってこの旅のために40本ほどの
リバーサルフィルムを持ってきていた
値段にして訳3万円ほど

中国国内ではリバーサルの入手は困難で
もし観光してダメになっていたとしたら・・・

彼の落ち込み用と言ったらなかった・・・

西寧に着いたら、試しに一本現像してみて
感光の有無を確かめるしかなかった
(結局感光はしていなかった)


車窓から 名も知らぬ街を望む


2泊3日の電車旅
楽しいはずの火車旅の間
ミノはなかなか元気を取り戻せずにいた
今思えば本当に悪いことをした

西を目指して火車は進む 途中の街にも降りてみたかった


僕たちは、横浜から上海まで
3泊4日の船旅を終えた翌日に
今度は2泊3日の火車旅に
ほぼまるまる1週間
乗り物に乗り続けるという
なかなかハードな経験だったと思う

窓から外の景色を楽しむミノとカトー

当時は予算を重視して
硬座でこのルートに挑む
旅人もたくさんいて
今思えば、そんな経験ができたのも
この頃だけだったなとの思いもある


窓から見る景色は壮大で 旅情を掻き立てられた

実際、ほぼ貸切だった軟臥の席は
快適ではあったけれど
地元の人との交流は
ほとんどなく

これがもし硬座だったなら
隣あった地元の人たちと
貴重な体験ができたと思う

若くて体力もあったこの時なら
そんな選択でも
よかったなと思う

続く

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