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"みんな"と"ふつう"の違和感

河野企画代表、チューバ奏者、指揮者の河野一之です。

”みんな”と”ふつう”の違和感の話。

日本の社会で暮らしていると

みんなが
ふつうは

という主語や副詞をよく聞く。かなり嫌な顔をされる場合が多いが、”みんな”に関して言えば「その”みんな”というのはどなたですか?」と質問をするようにしている。

また河野の体感であるけれど、”ふつう”に関してもその人にとってのふつう=普段からあることな場合が多いので「あなたにとってはそうかもしれませんね」で済む。

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主観

僕ら人間はどうしたって主観のもと生きているため、自分がみている世界、感じている世界をもとに考えたり話したりする。

すると、100人、1000人に聞いた訳でもないのに身の回りの人たち数人が言っていた内容が

"みんな"というまるで大多数が言っていたかのように感じまた別の他者へ話す際に誤解を生んでいく。

実際の話で、とある演奏会を企画しようと選曲会議が始まった。

ある人が「みんなこれやりたいって言ってましたよ」とある曲を提示した。疑問に思い「みんなと言うのはどなたがですか?」と実際に尋ね続けると実際はその方が立ち話をしている時に話していたたった1人の人だった。

例えば金管バンドで言えば約30人、1/30は"みんな"とは言えなさそうだ。

この例のように、僕たち人間の”感覚”は多くの場合かなりの誤差をうむ。なので”みんな”という曖昧な言葉は何かを決めたり話し合ったりする時には気をつけて使用する必要がある。

ふつうは

文章にすると当たり前のように感じるけれども、僕たちはすぐに自分にとっての当たり前を他の人にとっても当たり前だと勘違いする。

主観がなせる技だ。

例えば、僕たち日本人がトイレで用を足した後、トイレットペーパーはそのまま便器に流す。これは僕たち日本人同士で話していれば”ふつうは”に適用されるだろう。

でも海外の人たちと話す際、ある国ではトイレットペーパーはトイレに流さず備え付けのゴミ箱に捨てる。という習慣を持っている国もあるわけです。

という風に僕たちの”普通”が全く通じない場合が多い。

もっと言えば、女性と男性にの普通の違いもあるだろうし、親と子という近い距離でもそれぞれにとっての普通というのは変わってくる。

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まとめ

日本民族という一種族が大半を占めるこの国にいると、どうしても同調圧力が発生しやすくなるけれど、

すでに始まっているグローバル化に伴い実際に海外の人たちとのコミュニケーションも増えていく中で”みんな”、”ふつう”という安易な言い方は避けるべきかもしれない。だってその一言が日本という国を印象付けてしまう場合が多い。

また公式な場に関して言えばデータや数字のもとで使われる”みんな”、”ふつうは”という言い方は不正確さを招き結果的に中途半端な情報の元何かが決まってしまうことだってある。

そして僕たち日本人が気をつけなくてはいけないのは、日本人が大半を占めるこの国で暮らしているあっても、同じ日本人同士でもそれぞれちゃんとした個性があるということを認知しその上で話す必要がある。

当たり前でしょ?
普通はそうでしょ?
なんでわからないの?

という言葉はまさしく主観に支配されているから出る言葉で、これらへの返事は全て「あなたにとってはね」となる。

同族だろうが、外国人だろうが、全て他者を認め、そうして認め合ってそれぞれの個性が生きる国になるともっと素敵だなと思う。


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