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何が一番大切か、 僕らは見失う

河野企画代表、チューバ奏者、指揮者、金管バンド専門家、英語通訳、企画運営の河野一之です。

今日は何が一番大切かの話。


目まぐるしく流れる日常、山積みの仕事、忙しい毎日を過ごしていると忘れやすいのが物事の本質だ。

誰しも本質、何がそのものにとって一番大切なのかということが大事かはわかってはいるけれど、なぜだか僕らは何かと言い訳をし、それを忘れてしまう。

それは時には意地だったり、時にはやることが多すぎて=忙し過ぎてだったり色々な理由で僕らは本質から逸れる。僕も簡単に見失うことが多々ある。

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例えば

吹奏楽コンクール。

小学生から一般社会人まで一つの舞台でそれぞれ決められたルールのもと音楽を演奏し、審査員の音楽性とコンクールの趣旨のもと優劣をつける大会だ。

このコンクール、どうしたって勝ち負け、賞の種類にこだわりたくなるものだけれども、本来は人生を豊かにするための要素に過ぎないはずだ。

例えば
・部活やサークル、アマチュアの団体でみんなで音楽を作り、一つの目標に向かう。
→練習開始時期からコンクールまで切磋琢磨する時間がメンバー同士の絆を深めたり、目標があることで課題曲や自由曲に対する造詣を深める。
=音楽に真摯に取り組む。

その時間が人生をより豊かなものに変える。

思い返して欲しいんだけど、例えばコンクールで金賞をとったとする。しかも最優秀賞だ。その受賞をした”瞬間”の喜びは大きく思い出に残っているだろうけど、一番思い起こせるもの=ドラマがあった時間は
そのコンクールの舞台上で演奏するまでのメンバーとの練習の時間ではなかろうか

ここでの時間が豊かであることが人生を豊かにすることに繋がっている。コンクールでの演奏や結果は本質的には何でも良い。

またもっと掘り下げると、なぜその吹奏楽部、サークル、団体に入ったのか、なぜ自分は楽器を演奏しているのか、音楽が好きになったのか

こういうことを時たまで良いから考えてみるべきだ。

するときっと色々な理由で迷子になっていた自分の音楽を愛する気持ちを再度発見するはずだ。例えそれが好きな子が吹奏楽部にいたからという別な動機であっても今この瞬間自分が続けている理由があるはずだ。

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僕で言えば、

中学校に入学したての春。
県主催の音楽会に全校生徒で向かった、おぼろげな記憶の中にいまだに残っているのはそこで演奏された弦楽での室内楽演奏だ。

薄暗いホールの中に響くあの美しい音色や音楽が僕の心を捉えた。そしてその後の僕に「弦楽器、やらせてください!」と吹奏楽部のドアを叩かせたのである。
(吹奏楽部に弦楽器は無いという衝撃の事実を知った、ヴァイオリンに感動したのだけれども一年だけコントラバスをやれたのは別の話。)

だから僕の音楽をやる本質の中には「聞いていただいたお客様に何かしら非日常を、人生の転機になるような、素晴らしい時間を提供したい。」という風なものがある。なので僕の音楽は聞いていただく方々ありきのものだ。ここが自分で満たされていれば本質を掴むことになる。

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まとめ

僕たち人間は頭が良すぎるのか悪すぎるのか、物事を簡単に複雑化する。

人生を豊かにするために、
・音楽を楽しむ
・家族と過ごす
・誰かの助けになる

などたくさん方法はあるけど、そこへ「忙しい」「こんなルールがあるから」「決まりが」「時間がない」「やることがある」etcと言った具合に様々な理由をつけてその本質から目を背けてしまったり見えなくしてしまう。

その理由の方がなんだか大ごとでエネルギーが強いように勘違いしてしまうからだ、でも本当は自分にとって一番大切な、人生の本質を大切にしない限り穴の空いたコップのようになり、どれだけ幸せや愛、有意義な時間などを注ぎ込んでも本質が満たされないので飢えは止まらない。

なのでいつでもなぜ、自分はこれを行なっているんだっけ?

なぜ働いているのか、なぜこの人と一緒にいるのか、なぜこの音楽をやっているのか聞いているのか、なぜこの時間を過ごしているのか

振り返って見ても良いんじゃないかな

特に人生の大半を過ごす、仕事、家族、趣味は大いに考える余地はあるよね。

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忙しくて、疲れててと理由が出てきた時。
だったら本質のために「忙しくしない」「休む」が必要だし、そこに言い訳が発生するのであればそのずっと「忙しくて」ずっと「疲れる」環境にいることになる。

全部自分で選べるのだ。
どうせなら楽に楽しく、Happyに。僕はそう思うよ。

今日も良い一日を


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