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『殺しの天使 Destroying angel』


久しぶりに日本に帰って来てから、哲子は一日中部屋でテレビや携帯やパソコンの画面を見続けていた。家の固定電話に出る事さえも億劫になった。急に目眩が酷くなったり貧血で朝起きれなくなったりする事も多くなった。重いストレスが原因だと自分でも分かっていたのだが、彼女にはどうする事も出来なかった。
精神科の3分診療という言葉を知っていたからいかがわしいものとして抵抗があったが、半分怖い物見たさで心療内科に行ってみる事にした。ネットで調べて評価の高かった精神科クリニックに来てはみたが、そこは平日にも関わらずとても混雑していた。家から歩いて行ける距離なのは都合が良かったが、狭い待合室で待ち続けているだけで余計に気分が滅入ってきた。病気がいつまでも治らない患者をたくさん抱えているから混んでいるのか、医者の腕が良くて評判だから混んでいるのか、その辺は判断のしようがなかった。
精神科病院の混雑状況はどこも似たり寄ったりでリピーターも多いとは聞いていたが、実際に来てみると想像以上で、よくこんなに長時間待たされて平気でいられるものだと呆れてしまった。
長時間待つのもやむを得ないくらい病状が深刻な人々が多いという事なのか?
もしそうならば、自分はまだマシな方だと哲子には思えた。待合室で並ぶ陰鬱な表情を浮かべた人々の中には、とても治る当てなどなさそうな人も多く、見ているだけでこちらの症状が更に悪化してしまいそうだった。
彼女は2時間近く待たされたが、診察時間は5分程度、診断結果は双極性障害Ⅱ型、そして複数の薬を処方された。
副作用のある薬、副作用を抑える薬、睡眠を促す薬など、まるで薬のカクテル状態だった。多剤大量服用の問題の深刻さをネットの情報で知ってからは、彼女は薬の量を少しずつ減らしていき、やがて病院へも行かなくなってしまった。

暇を持て余しているくらいならば車の運転免許でも取ればいいのにと周りに勧められたが、子供の頃に交通事故に遭った事がトラウマとなっていてそんな気にはなれなかった。「原付きバイクの免許なら車よりももっと簡単に取れるし持っていれば何かと便利」とネットで見知らぬ人にアドバイスされたが、尚更欲しいとは思わなかった。
同窓会にあまり気乗りしないまま参加した時には、久しぶりに会った旧友にピーターパン症候群だとからかわれ、帰りの電車の中では悔しくて涙が止まらなくなった。
哲子の母親も2人の姉も働いていた。哲子は独りの時間を何をするとも無しに過ごした。
ある時は、トカゲの尻尾切りの事を考えていた。子供の頃に見たアニメで、若くて明るくて元気で美人なお姉さんがトカゲの黒焼きを美味しそうに食べるシーンがあり、その事が頭の中にあった。

近くの公園でトカゲを捕まえたい。針金などで胴体を縛って動けなくし、トカゲのエネルギーの消耗を極力抑える。温かい場所に置いて育てる。餌をたっぷり与えて太らせる。十分に太らせてから大きくなった尻尾を切り落とす。調理して加工して販売する。餌を与えて尻尾を再生させる。再生したら切り落とし、再び調理して加工して販売する。それを何度も繰り返す。殺さないから動物虐待にもならない。世界を貧困と飢餓から救い出し、自分は救世主として称えられる。イグノーベル賞を受賞して世間をアッと言わせる。

そんな妄想を膨らませていくのだが、妄想を膨らませるだけ膨らませるだけでトカゲの尻尾など食した事は一度もなく、トカゲを探しに近くの公園に行く気さえもとっくに失せているのだった。
「コモド島にいるコモドドラゴンがあったなら」と哲子は密かに思うのだった。
「尻尾の輪切りステーキを何枚焼けるだろう」

「築地に行けば河豚を丸ごと一尾買えるのかな?買えるならどんな料理にしたら良いのだろう?普通に捌いて身を食べても良いのだろうが、河豚の姿煮や卵巣を浸しておいたお酒を飲むのも良いだろうなぁ」

そんな妄想にワクワクしながら過ぎて行く日もあった。実際に河豚を買いに行く事など一度もなかった。
ある時はテトロドトキシンが彼女にとっての呪文の言葉となり、ある時は猛毒の火焔茸や玉子天狗茸や白玉子天狗茸や毒鶴茸が聖なる呪文なのだった。「Destroying angel 」。殺しの天使。白玉子天狗茸や毒鶴茸の英名。その言葉の響きに彼女はうっとりするのだった。
「猛毒の火焔茸を浸しておいた酒をキャットフードに混ぜて、近所の野良猫どもに食わせてやろう。それを動画に撮ってYouTubeで世界中に配信してやれ!偉大な化学実験だ!」
確かにそうかも知れなかった。何処かで誰かがやっていそうだった。
哲子の瞳の奥の火焔が静かに揺れ出した。彼女が住んでいる家の近くには大きな川が流れていた。その川の土手の片隅で毎年秋になると火焔茸がひっそりと芽を出し、彼女を待ってはいたのだが…。

違法改造された単車に乗ってけたたましい爆音を上げながら走る馬鹿者共を見掛けた時は、Amazonで吹き矢とクロスボウとアーチェリーを検索した。その日はAmazonPrimeDayという事もあり、値段は彼女が思っていた程高くはなかった。数千円も出せば買える。
「アラーもヤハウェも天照大神も精神病に違いない。いっそ私も狂ってしまえたら…」
クロスボウもアーチェリーも彼女には魅力的なアイテムに思えた。デザイン性とコスパに優れている。ほんの少しの勇気と背中を後押ししてくれるちょっとしたキッカケが欲しかった。彼女の心はザワザワしていた。


おしまい

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