義父ラミ神~ラミレスJr.~
2004年~2007年に渡り東京ヤクルトスワローズに在籍した
アレックス・ラミレス・ジュニア(Alex Ramirez Jr.、1983年9月1日 - )は、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手(投手)
を皆さんご存じだろうか。
彼は2004年に義父のアレックス・ラミレスを頼って来日。練習生としてヤクルトの二軍の練習に参加した。同年末、残留交渉が難航したラミレスの契約の一環として、ジュニアとも選手契約が行われた。ラミレスが2005年からの3年契約の為、ジュニアも3年契約となった。
・アレックス・ラミレス(アレキサンダー・ラモン・ラミレス・キニョーネスAlexander Ramón Ramírez Quiñónez, 1974年10月3日 - )は、ベネズエラ出身の元プロ野球選手(外野手)、横浜DeNAベイスターズ監督(第30代)。就任時点で外国籍を有する監督としてはNPB史上9人目で、NPB史上初の米国籍以外の監督である。2019年に日本に帰化した。
ヤクルト時代は入団1年目の2001年にチームのリーグ優勝・日本一に貢献。以降も主力選手として活躍し、2003年には本塁打王・打点王・最多安打のタイトルを獲得。2007年には外国人選手・右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成し2度目の最多安打を獲得した。
巨人時代は主力として2008年に打点王、2009年に首位打者を獲得するとともに2年連続でMVPを受賞し、2度のリーグ優勝、日本一(2009)に大きく貢献した。
DeNA時代は2013年に日本通算2000安打を達成し、外国人選手では史上初の名球会への入会を果たした。8年連続100打点超えの記録を持つ。
ラミレスJr.は野球経験がないまま投手扱いで入団した。この当時は直球は130km/hに満たず、制球もままならなかった。当初は右投とされていたが、左でも投げられることが判明したため、投手をするときは左で投げるようになった。 2005年の春キャンプでは、2日目で太ももの張りを訴えてダウン。運動不足によるただの筋肉痛であった。3月18日、二軍の教育リーグ(湘南シーレックス戦)で実戦初登板。1回を投げ3四球1失点という結果に終わっている。
2006年、二軍公式戦初登板を果たす(1/3回を投げ2失点)。同年の登板はこの1試合のみであり、防御率は54.0となった。一軍での出場は、なかった。
2007年、二軍戦ながら奪三振(石橋尚登から)も記録した。球速も130Km/hを超すようになるなど、それなりに成長はしていたが、ラミレスの退団に伴い同年11月30日付で自由契約となった。3年間の二軍の通算成績は3試合、0勝0敗、防御率10.80。
自由契約後は帰国し企業家を目指し勉強中であったが、2008年4月23日、四国・九州アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに入団。8月17日付で、本人の申し出により退団した。在籍中の成績は6試合に登板し、22イニングを投げて1勝2敗、防御率6.95であった。
※グリフィー親子
日本プロ野球で父子での同一チーム所属は極めて異例の事であった。メジャーリーグでは、1990年から翌年にかけてシアトル・マリナーズにケン・グリフィー・シニアとケン・グリフィー・ジュニアの親子がチームメイトとして在籍し、話題になったことがある。
前述の通り、ヤクルトとの契約は戦力として計算したものではなかった。ポジションも投手扱いではあったが、場合によっては内野手(二塁手)を守るという話もあった。その場合、左投では支障が出るため、野手で出場の場合は右投で出場することになっていた。しかし内野の経験がある訳ではなく、野球に関してはまったくの素人であった。
結論.アレックス・ラミレスは凄いので野球阿修羅でも連れ戻せません。
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