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⚾️おばあちゃんの手紙|諦めない限り、道は拓かれる。

野球場に行くと、様々な人と出会います。ありがたいことに時々、お手紙なんかもいただきます。

先日、家を掃除していたら懐かしい手紙がでてきました。送り主は埼玉西武ライオンズに所属している、山野辺翔選手のおばあさまです。彼は桜美林大学を卒業し、三菱自動車岡崎を経てプロの世界に飛び込みました。

学生時代は明治神宮大会準優勝。個人では、何度もタイトルを獲得する名二塁手。結果だけをみれば、プロ入りはなんら不思議ではないかもしれません。しかし、そこに至るまで数々の壁を乗り越えてきたのです。

手紙を振り返りながら、当時の思いとプロ入りまでの軌跡を綴っていきたいと思います。

6年前の夏、最後のリーグ戦を目前に、ENEOSとのオープン戦がありました。いつものように球場へ向かうと、山野辺選手のご祖父母がやってきました。二人そろって球場にくるのは珍しくなく、孫(翔選手)の活躍を楽しみに、どんなに遠い場所にも応援に駆けつけていました。

試合が終わったあと、一緒にカフェに行きコーヒーをご馳走になりました。幼少期の頃、シニアのこと、高校時代のこと。色々なことを教えてもらいました。とても嬉しそうな表情に、私も温かい気持ちになったのを覚えています。

後日、ご馳走になったお礼に写真をプレゼントしました。私が唯一お返しできるのは、日々の活躍をカタチとしておさめること。おばあさまはとても喜んでくださいました。

また別の日、写真のお礼にとお手紙とタオルを下さいました。秋のリーグ戦が始まった直後だったでしょうか。いつだってもらってばかりのわらしべ長者。家に帰って手紙を読みました。

かなねーさん
お写真ありがとうございます。
額に入った立派な写真私の宝物になりました。
暑くても寒くても遠くまで応援に来てくださり、
記録をつけたり写真を撮ったりと
球児達には力強いお姉様だと思います。
秋の大会が終わったら大好きな野球も
楽しむ程度になってしまいます。
でも充分頑張ったのだからいいとしましょうね。

監督 コーチ 先輩の方々のおかげです。
そして大勢の皆様方の応援のおかげだと思います。
口数の少ない翔ですが充分わかって感謝しております。
学生生活は長いようで短く感じる日々でした。
私達家族も皆で楽しませてもらいました。
子供達には感謝感謝です。
大変お世話になりました ありがとうございました。
またよろしくお願い致します。
山野辺選手のおばあさまからの手紙

前半は自分のことで少し恥ずかしいですが、読んでいて目が真っ赤になったのを覚えています。こんなに素敵なご縁が野球にはあるのかと感動したことが一つ。もう一つは、こんなに上手な選手でも、野球を続けられないのかという現実を知ったことです。落胆したとか、残念に思ったとか、そんなことではありません。もっと複雑な何かが心に引っかかったのです。本当に最後なのだと突きつけられたことの寂しさでしょうか。

早い選手は、大学三年次には何となく先の目途がついていると聞きます。大学四年の夏に、山野辺選手はどこも決まっていなかったのです。本人も、この秋でおわりだからと話していた記憶があります。


でも彼は二年後、プロ野球の道を切り拓いたのです。


2016年の秋、桜美林大学は東海大学を破って創部初のリーグ戦優勝を果たします。その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

帝京大学に勝ち点を奪われたことで、残る日本体育大学の三戦目を制し、東海大学に二連勝をしなければ優勝はないという崖っぷちに立たされました。山野辺選手の一振りのみで東海大学に初勝利を飾り、最後も総力で戦い抜きました。まさに奇跡と実力が合わさったリーグ戦でした。涙なしでは語れません。

横浜市長杯でも初優勝を飾りましたが、初戦は田中正義投手(ソフトバンクホークス)率いる創価大学。いつ引退になってもおかしくない戦いを繰り広げ、最も長い秋を経験しました。

どの時点で話があったかはわかりません。厳しい秋を戦い抜いた結果でしょうか。山野辺選手は『三菱自動車岡崎』へ進むことが決まりました。この先もユニフォームを着てくれる。報われてよかったとほっとしました。

社会人チームに進んでからも、二塁手で毎試合スタメン起用。都市対抗野球でトヨタ自動車の補強選手に選ばれた際も、レギュラー選手を押しのけて出場していました。本人の努力の賜物だと思います。

そして迎えた2018年のドラフト会議。埼玉西武ライオンズに3位で指名されることとなりました。おばあさまからいただいた手紙を振り返ると、とても感慨深いものがあります。二年後指名されることはおろか、社会人野球でプレーすることすら考えられなかったのですから。


諦めない限り、道は拓かれる。


大学時代、山野辺選手がプロ野球選手を目指していたかはわかりません。でも諦めなかったから今がある。私はそう思います。

山野辺選手は自分にも人にも厳しい人だったと聞きます。夜遅くまで練習をし、黙々とやっていたとも聞いたことがあります。人はいつどこで花開くかわかりません。でも、続けることに意味がある。そんなことを改めて感じました。


―――

2016年の桜美林大学は、私が首都リーグを見てきた中で最も好きなチームです。この先も彼らをこえるメンバーはいないのではないかと思うくらい、思い出深い年代です。

山野辺選手の思い出が一つ。それは、明治神宮大会のときにサインをもらったときの話です。卒業してしまうんだから、最後にサインをちょうだいとお願いしました。

僕のですか。千隼(千葉ロッテマリーンズ)がプロ行くんだから、そっちの方が良くないですか。僕のなんてもらっても。

なんていっていました。今、あの頃に戻れるのなら、あなたは二年後にプロ野球選手になるんだよと伝えたいです。きっと本人は「えー!本当ですか」というでしょう。

当時書いてもらったサイン

サインは今でも大事に保管しています。人って本当にどこで芽吹くかわかりません。もちろん、努力の結果であることは大前提。山野辺選手の今後の活躍をこれからも願っています。私自身も精進します。

おばあちゃん。元気にしていますか。もうしばらく会っていませんが、翔さんはさらに素晴らしい選手になりましたね。手紙をいただいた日のことは今でもはっきり覚えています。あのときは続けるなんて思わなかったかもしれませんが、今では皆の目標とされる『プロ野球選手』まで駆け上がりました。とても遠い人になってしまいましたが、私は変わらず応援しています。いつかどこかでまたお会いできますように。


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