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東日本大震災のあの日 #5 (韓国人の視点)


8.卒業式


中学3年生(4人)と小学6年生(5人)の私達は卒業式を一緒に行いました。

2011年の卒業生は全部で9人だけでした。

私達小学6年生は前から準備していた卒業公演をそのまましましたが、その時の中学3年生達は卒業公演のプログラムを全部変えて一から震災の話に変えて公演しました。

話事態は私が今まで書かせてもらった内容と同じような内容でしたが、当時の中学3年生の凄いところはそれを1週間で準備したところでした。

その卒業式にはたくさんの同胞達が集まりたくさんの方が震災を思いだしました。

ここで大体の当時のお話は終わりなんですが、まだ一つだけ話してないことがあります。

それは他県からたくさん集まった支援物資の話です。


9.支援物資


私達は想像もしていなかったんです。

まさかこんなにも支援物資が届くなんて。支援物資は卒業式をした食堂をぱんぱんにするくらいに集まりました。

支援物資は米や非常食、手作りの横断幕などが届きました。

なんと朝鮮、韓国からも支援物資が届きました。

朝鮮からは大量の学校復旧のための資金を。

韓国からは大量の水を。

全国各地からの支援があの時あったから私達は今も学校を存続できていると言っても過言ではないでしょう。

支援物資は半年は尽きなかったですね。


あとこんなこともありました。

辛いのは私達だけじゃないと考えたお偉いさん達が近くの日本の小学校を借りて炊き出しをしたりしました。

私の母も参加してました。

日本人から厄介扱いされている私達でしたが、当時はそんなのどうでもよかったんです。

みんなで今を生きようと、乗り切ろうと必死だったんです。

震災は私達から学校、家族などたくさんの物を奪いました。

ですが私達はあの時たくさんの人に助けらながら、負けずに生きました。

そんな強い学校が今も宮城にあります。

10年前のあの日より学校は小さく、人数も20人いません。

ですがまだあの学校は強い輝きを放って今もあります。

10年前を忘れずに今後もあの学校は強くあり続けるでしょう。


                                                                2011年の頃、6年生だった卒業生より

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