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「おかげさま」という言葉とともに、少し人生を振り返る

今日のnoteは普段の投稿と異なり、アドベントカレンダー企画として書いています。

この企画はコーチたちによるものです。企画に参加するメンバーがそれぞれ大切にしている「ことば」を贈り合い、それをテーマにnoteを書いてバトンをつないでいきます。私はその8日目の担当として、このnoteを書きました。

私に贈られた言葉は「おかげさま」

私が「おかげさま」という言葉からイメージするのは感謝の気持ち。
驕りのない、謙虚で穏やかな状態。この言葉は人と人の間を循環していくようなイメージもある。

さて、私はこの言葉でどんなnoteを書こうかな。

正直方向性にめちゃくちゃ悩んだ。だけど最終的に、迷いつつも、なるべく普段通りの文章を書くことを選択した。

毎日投稿しているnoteは、私のため、それから、過去・現在の私と似たような感情や悩みを抱える人のために書いている。だから今回も同様に「私と共通点のあるだれか」のために書きたいと思う。

「おかげさま」から連想されるものたち

最近はなにかと感謝したくなるような出来事が多かったため
「感謝のエピソードを書き出してみよう!」と考えた。

だけど、ルールを設けず挙げたら収集つかなくなるのでは…?ということで、今回は人生のターニングポイントにもなった「おかげさま」エピソードに絞る。

あまり考えすぎると空回りするので(笑)、なるべく考えず、恥ずかしがらず、素直な気持ちで出てくるものを言語化してみたい。

時系列で振り返っていこうかな。

1.夫

「おかげさま」というワードから真っ先に頭に浮かんできたのは夫だった。
それくらい夫には心から感謝している。

夫と出会ったのは大学時代。同じサークルに所属する一つ上の先輩。

当時の私は18歳になってもリアルな恋愛感情というものがよくわからず、周囲の友人と比較して自分はどこか感情が欠けた存在かもしれないと思い悩んでいた。
(ちなみに少女漫画は大好きだった。笑)

自分でも中二病くさいなと思いつつ(笑)、割とガチで「好きって何?」という問いを持ち続けていた。試しに付き合えば何かわかるかもしれない、と何度かチャレンジしてみたけれど、全然ダメ。たとえ「彼氏」であっても、ハグされただけで拒絶反応が出てしまう。鳥肌が、ぶわー!!!!って。

こりゃだめだ。好きになるところすら始められないなら、私には一生恋愛との縁がないのかもしれない…と18歳の私は孤独感でいっぱいになった。

友人の恋バナを聴いてもまったく共感できない

「恋愛的な好き」を経験していない私は、キラキラした表情で恋人の話をする友人についていけなかった。きっと素敵な体験なんだろうな…と楽し気に話す友人をうらやましくも思った。

少女漫画は中高生の頃よく読んでいたから、物語としてなら感情をイメージできた。でもそれは薄っぺらく、私の頭の中で作られたもの。自分が体験しない限りリアルな感情は理解できない。でもそんなことを友人に話せるわけもなく、相手の感情を想像しながら適当に相槌を打ちつつ話を聴いていた。

同じ温度感で話せないのはどこか虚しかった。
それがとても印象に残っている。

夫に芽生えた恋心

(なんてこっぱずかしいサブタイトル…笑)

そんな私に、ついに「恋愛感情」を教えてくれたのが夫だった。

残念ながら(?)「気づいたら好きになってた」とかいうロマンティックな展開ではない。でも好きになることができた。正直はじめは頭で考えて、理性によって「夫に片思いをする」選択をした。それでもちゃんと心がついてきたし、拒絶反応も出なかった。

強く誰かに惹かれる底のない感情をはじめて経験して
「好き」ってこういうことか!!!と衝撃を受けたし、ようやくそれを知れたことが嬉しくもあった。

付き合えてからも夫をどんどん好きになることができて、相手から必要とされることも嬉しくて、心から「生きててよかった」と感じた。

夫には付き合った直後からすべてさらけ出してきた。どうせ拒絶されるなら早いほうがいい、そんな不安からの行動。長年自分を深いレベルで開示できる相手がいなかった分、正直はじめの頃はかなり重い彼女だった。
(そこは自分でも正面から受け止めるにはまだ少し抵抗があるし、つい苦笑いしたくなる)

でもあの行動がなければ、いつまでも上辺の関係性だった可能性が高い。

ぶっちゃけ言うと、当時の私は良くも悪くも人生を諦めていた。

「もし人生うまくいかず、どうしようもなくなったら無理して生きる必要はない」

この言葉をお守りのようにして生きてきた。後ろ向きなポジティブさ。

そんな私でも、夫と出会って、未来に目を向けられるようになった。
夫のおかげで、私は18年ものの壁を乗り越えることができた。人生ではじめて「心の安全基地」を手に入れた。

夫は、両親にすら本音を晒すことのできなかった私に、はじめて素でいられる場所を提供してくれた。

今もたくさん支えて貰っている。以下に続く2~5のエピソードでも、夫は私の助けになってくれていた。感謝しかない。そして私も夫の居場所の一つであり続けたい。

2.ブラックな職場

新卒で入った職場はいわゆるブラック企業。
営業事務として配属され、確か4年半ほど勤めた。

そんな企業に勤めてしまったのは、就活で手抜きした自分にも責任があったと思う。でも当時はそれを認めることができず、会社にたいしての不満を同僚たちと垂れ流しながら日々働いた。

そこは古い体質の企業で、無駄な仕事が多く、規模も地味に大きい。
仕事量は膨大。真面目な人が損をし、上層部へ媚びたものだけが昇進する。
毎日不条理なことばかり起きていた。不条理が嫌いな私にとっては苦痛でしかない環境で、あらゆる業務をほぼ一人で回した。
(厳密にいえば"ほぼ一人"は2年目あたりから)

最もひどかった時期は2年くらい続いた

ピークだった頃は毎日16時間前後働いていた。だけど、長時間労働は自分の能力が低いせいかもしれないと思うと、上層部に改善要望を出すことができなかった。他部署の先輩社員に嫌味を言われたくなくて、隠れるように休日働いて必死に仕事を間に合わせた。

愚かだと言われるかもしれないが、当時の私はいかに日々を乗り越えるか?で頭がいっぱいで、逃げる選択も、戦う選択も、対策を調べることも、何も思いつかなかった。

たぶん、仕事を頑張ることで得ていた周囲からの評価を失うのが怖かった。
それ以外に自尊心のもとになるものがなかったから。

私は常に完璧であろうとした。自分に厳しくするほど他者にも厳しくなっていく。私はさらに鎧を着こんで、自分の能力以上のことをやろうとし続けた。

その結果、あるときから、自分は何のために生きているのかわからなくなってしまう。

「生きるために仕事をしてきた。なのに今は仕事のために生きている」
「何のために頑張っているんだっけ?」
「生きるのがつらい」

そんなことを考えるうちに、ただ仕事をしているだけで涙が出るようになった。灰色の日常は生きている実感を奪い、代わりに虚しさを私に与えた。

それでも職場から抜け出そうと思えなかった。嫌いな職場でも、大好きな人たちがいたから。私を助けてくれたその人たちを私もまた助けたいと思い、置いていくことができなかった。その感情だけで力を振り絞って毎日出社した。

しかし、それでもとうとう限界がやってきた。
「もう誰にどう思われてもいい。これ以上耐えられない」
そこではじめて、これ以上ひとりで働くことはできない、と声に出すことができた。

そこからは一気に状況が変わった。

(ちょっと揉めたけど)すぐに面接の手配が進み、パートの方を採用し、負担は軽減。だけど一度限界を迎えた私のモチベーションはもう戻らなかった。頑張りたくても頭が思うように働かず、変なミスを繰り返してしまう。まるで伸びきったゴムのような状態だった。

1年くらい不妊で悩んでいたこともあり、環境を変えるために退職を決意する。先述した「大好きな人たち」のうちひとりであった所長に「辞めたいです」と打ち明けたとき、自らの不甲斐なさに涙が出た。所長も激務に苦しんでいるのを知っていたから、助けられた恩をこれ以上返せないことがつらかった。

だけど所長は私を非難することもなく、私の幸せを願ってくれた。
ますます涙が止まらなくなった。

こんなエピソードがなぜ「おかげさま」なのか?

今の私は当時の経験にかなり助けられている。失敗すれば責任を押し付けられる環境だったから、すべて自力で考え、どうにかするしかなかった。業務内容も幅広かったため、ある程度は経験値が稼げた。

また、「休息」「食事」「睡眠」の大切さを痛いほど思い知った。

当時の私はこれらの重要性を理解しておらず、すべてにおいて真逆のことをして、当然のように不調になった。そうやって失敗したことで、これらを蔑ろにしてはならないと学ぶことができた。大切なことを若いうちに気づけて良かったと思う。

あの会社に入ったおかげで、今後二度と味わいたくないくらいの強いネガティブな感情を体験した。でもそれによって自分の限界値も知ることができたし、今の私の土台が作られた。一生ものの友人に出会うこともできた。心からの人のやさしさに触れることもできた。

当時は上層部へのネガティブな印象が強すぎて、まるごと「嫌な記憶」とラベリングしていたが、今ならたくさんの「おかげさま」が頭に浮かぶ。

ようやく
「あの日々は私にとってプラスな影響を与えてくれた」
と心から言えるようになったことが嬉しい。

3.息子との出会い

ブラックを退職後はパートとしてフルタイム勤務。

比較的ホワイトな環境で一気に日常の質が回復したためか、不妊に悩んでいたのが嘘みたいにすんなり妊娠。妊娠検査薬で陽性のラインが出たときは、言語化できないほどの喜びだった。

念願の赤ちゃんに心が躍るが・・・

幸福な育児ライフを夢見て、妊娠中のつわりや体調不良に耐えて過ごした。

「このしんどさは、赤ちゃんが生まれたあとに消えてなくなるはず…!」

しかしその期待は裏切られる。

産後は、産後特有のホルモンバランスの乱れや初めての育児へのプレッシャーなどで一層バランスを崩しやすいことを私は知らなかった。さらに、妊娠前の自分と産後の自分は明らかに何かが違う。まるで別人の体になってしまった気分だった。何か大切なものを手放してしまった感覚と、「もう元には戻せない」という事実が悲しかった。

我が子に出会えた喜びはとてつもなく大きなものだったし産んで後悔したことは一度もない。

でも、それとは関係なく、産後1か月くらいは涙が止まらない日々を送った。一度涙が出てくると止め方がわからない。なにかあったわけでもないのに、謎の孤独感や不安でぐちゃぐちゃになった感情が涙となって溢れ出る。

「この子の未来は私の育て方に左右される」

そんな重責を頼まれもしないのに勝手に背負い、ひとりで頑張ろうとした。

たった50センチ、3キロ程度しかない新生児は小さくて愛らしい。だけど弱々しい。少しでも油断したら生死にかかわる問題に発展するのではないか、この子を失ったら生きていける気がしない、そんな命の重さにも当時の私は怯えていた。

母親として、自分について改めて考えた

沢山の不安を抱えつつも、母親としての自覚はどんどん強くなっていった。

「この子の親として、このままの私じゃ嫌だ。変わりたい!」

そんな願いもいつからか私の心の中に生まれた。

もしも息子が生まれなければ、
「もし人生うまくいかず、どうしようもなくなったら無理して生きる必要はない」
という大学時代に握りしめてきた価値観が、以下のように修正された状態で今も継続していた可能性が高い。

「もし夫を失ったなら、無理して生きる必要はない」

息子が生まれて来てくれたおかげで、私は居心地の良かった「夫と私だけの世界」から飛び出す決心ができた。痛みを伴ってでも他者と向き合う努力をしようと再び思えた。夫以外にも守りたいものができたことで、私の世界は広がりはじめた。

4.パート先からの解雇通告

ありがたいことに産休・育休から復帰し、同じ職場で継続して働いた。
環境にも人間関係にも概ね満足していた。

ところが人間関係で問題が起こるようになる。

私はギスギスした空気が苦手で、ただそこに居るだけで苦痛だった。
日に日に出社が苦痛になり、そして、職場を変えようか悩みはじめる。

そのタイミングでの解雇通告。

本当に突然だった。

上司すら知らされておらず、支店の全員が驚いた。理不尽だと私の代わりに怒ってくれた人もいた。だけど私は不思議と取り乱すことなく、本社からはるばる解雇通告しに来た人事部長の辛そうな表情に、逆に心を痛めた。

理由を聞けば業績悪化によるもの。
解雇メンバーの選定条件についても納得できる内容だった。

人事部長が決めたわけではないことはわかっている。目の前の相手の気持ちが少しでも軽くなってほしい一心で、私は精一杯明るい表情を作りこう伝えた。

「わかりました、仕方ないです。次を探すので大丈夫ですよ!」

(表面上は落ち着いていたが、今思えば脳内では「保育園どうしよう!早く仕事見つけないと認可取り消される!」とあたふたしていた)

相手の表情が少し和らいだのをみて、ほっとしたのを覚えている。
そこからは宣言通り、前向きに新しい職探しに邁進した。

ちょうどコロナで景気が悪くなり始めた時期で、事務職は求人も少なく、パートでの応募にもかかわらず2社落ちた。焦りはだんだんと大きくなっていき、事務職なら手あたり次第に応募するようになっていった。でもそれが結果的に今の職場との縁を生み出したように思う。

不思議な縁に導かれた決断

めったに事務の求人を出さない今の職場が、ちょうど求人を出したこのタイミングで私は勤め先を解雇され、他企業の面接も落ちた。並行で受けていた企業も2次面接の日程が少し遅めに設定されたために、先に今の職場から採用の連絡を貰うことができたのだ。

次々と絶妙なタイミングで導かれたような気がして、不思議な縁としか思えなかった。

私を解雇してくれたおかげで、より自分の価値観にマッチした、快適な職場を見つけることができた。

今の職場でもそれなりに悩みはあるが、それを差し引いても、学生時代のアルバイト含め今まで働いてきた中では最も私に適した環境だと言える。

5.マイコーチ(コーチング)との出会い

新しい職場(今の職場)にパートとして勤め始め、私は仕事が以前よりも好きになった。と同時に、育児とのバランスが難しくなっていった。

もっと仕事したい、勉強したい、でも息子も大切にしたい。
モヤモヤするうちに、利害関係のない相談相手が欲しい、と考えるようになった。

即、Googleでメンターを検索。

そして出会ったのが、昨年の夏ごろから契約しているマイコーチ。
この時点での私はコーチングについて言葉しか知らない状態。つまり、これが本当の意味でのコーチングとの出会いでもあった。

マイコーチに伝えた私のゴール

仕事と育児の両立も課題だったが、もっと大きなテーマとして、私は自分を好きになりたかった。親になったことで「自分のことを嫌いなままでいたくない。私が息子の立場なら、自分の親に自分自身を嫌っていて欲しくない」と考えるようになったから。

マイコーチにこれを伝えたとき、「あなた自身の幸福については?」と尋ねられた。そこではじめて自分の理想を語った中に「夫の幸福」と「息子の幸福」だけが登場していたことに気づく。

正直指摘された時は驚いた。
「私の幸せはどこに行っちゃったのだろう?」と。

でも今なら自信を持って言える。

私にとっての幸福は、家族が幸せでないと成立しない。私の大切な家族が幸せでいてくれないと、私は心からの幸せを感じることができない。一見他人軸で生まれた願いのようにも見えるが、深掘りしてみると実は結構エゴな願い。
(コーチング的観点でいえばシャドウがいそうな考え方だけど、今の私にとっては心地の良い価値観。なので"今は"手放す気がない)

そんな私が設定したゴールは
「仏のように穏やかな人間になる」ことだった。

夫や息子の前で、穏やかなまま過ごしたかったから。何かに追い込まれているときの私はすぐカリカリしてしまう。鬼みたいにもなる。それが嫌で仕方なくて。

私の態度によって、夫や息子が私から離れていってしまうのが怖かった。

でも私はことごとく「我慢」に失敗し、自分は根性だけじゃネガティブな感情を制御できないのだと気づいた。私の場合、捉え方そのものから変えていかなくてはならない。

そして月に1度コーチングを受ける日々が始まる。

そこからの日常は今までと一変した。

徐々にスピードが上がっていく日々

コーチングでは月に一度、マイコーチに自分のことを心に浮かぶままに話し、頭の中を整理してもらいながら、"少し"頑張れば達成できそうな課題を与えて貰う。課題の絶妙な難易度設定のおかげで私はどんどんハードルを乗り越え、自己効力感を得ながらレベルアップしていく感覚があった。

仕事において、少し言いづらいような意見も勇気を出して言えるようになり、モヤモヤして立ち止まる時間は大幅に減った。

目の前の障害は自分で作り出したものが多いと気づき、それらをどんどん自らの手でぶち壊した。爽快だった。

これもまた導かれるかのように、次第にコーチングそのものに強い興味を抱いていく。

はじめは本から。
そして気づけばTHE COACHで基礎と応用ABの受講を申し込んでいた。

THE COACHでの学びは毎月受けるセッションの効果をより高めた。自分に何が起きているのかを体系的に理解することで、より思考が深まっていく。仕事での結果にも繋がっていき、社員化のオファーもいただいた。

何度生まれ変わったかわからないくらい、この約1年半は変化を重ねてきたように思う。中でも、今年の夏ごろからはすごいスピードで景色が変わり始めた。

だが今は少し歩みのペースを落としている。
スピードが上がりすぎて、うまくついていけなくなってしまったからだ。

以下のnoteに書いたセッションを受けた直後から、今までとは違う質感が心の中に生まれた。さらにTHE COACHの応用Bコースで学んだ内容がこの体験とリンクして、ここ約1か月半ほど、自己と向き合ってきた。

内省の仕方も切り替えた。
頭で分析するのを控え、心で自分の感情を味わうようになった。

ガンガン突き進んでいた頃の私とはまた別人のようだけど、どっちも私。同じ人間なのに短期間でこんなに状態が変わるなんて。人生は味わい深い。

スタート時に設定した「仏のように穏やかな人間になる」という願いはまだ達成できていないし、下手したら死ぬまでかかるかもしれない。

それでも、確実に変容はしている。

ここ1年で起きた変容

元々は隅でひっそり過ごしたい性格の私が、社内での発信に抵抗がなくなっていった。自ら企画を提案・実行し、THE COACHの受講中では積極的に手を挙げ、600名ほど参加するTHE COACHのslack(チャット)で練習相手を募集しまくって、noteを書き始め、初対面の人と沢山話し、仲間と出会い、いまこうしてアドベントカレンダーにも参加している。

過去の私が見れば自分でも「これは誰?」と問いたくなるかもしれない。

マイコーチとコーチング、それからTHE COACHに出会ったおかげで、今の私がある。1~4で挙げてきた過去の出来事も、当時感じていた以上に意味ある出来事だったと、捉えなおすことが可能になった。

18歳~現在までを振り返ってみて

当時の自分にとって「悪」だと思っていた出来事も、こうやって振り返ってみるとプラスになる何かを生み出してきていた。特に、苦しみが大きいほどのちに得る幸福がとてつもなくデカい。

私は、痛いのも苦しいのも基本的には遠慮したい。避けられるものは避けて通りたい。ただ、試練フェーズに入ってしまっても、最近ではどこかニヤニヤしていられるようになった。その証拠に、しんどい!抜け出したい!と思っているときでも、毎度マイコーチからは「その割に楽しそうだね?」と言われる。

試練の先にあるご褒美の美味しさを知ってしまったからだと思う。

そんなわけできっとこれからも、苦しみつつニヤニヤして生きていけそうな気がする。成長の過程でたくさん人に迷惑をかけてしまったことは反省しているが、その分いつか誰かが過去の私と同じ道を辿ったとき、許すことができそうな気もする。少しでもそう在れるよう、引き続き「仏のように穏やかな人間」を目指したい。

一年の最後にアドベントカレンダーに参加する機会と巡り合えたことにも、意味があったと思う。6日前からこのnoteを書き始めていたが、実は途中、noteの内容と関係のないところでも葛藤が起きていた。

でもその葛藤のおかげで、色々と受け止め、手放すことができた。

静かにゆっくり変容してきた約1か月半に、大きなインパクトを与えてくれたことで、このnoteを書いた経験も「おかげさま」エピソードに仲間入り。

まだこのゆっくりとした変容は続くかもしれないし、続かないかもしれない。いずれにせよ、変容を楽しんで行けると嬉しい。



アドベントカレンダーを企画いただいたりみさんとまーさん、強めに背中を押してくれたみどりんのおかげで素敵な体験ができました。
ありがとうございました!

こんな長文をここまで読んでくださった方も、どうもありがとう!

あー!書けて楽しかった!!笑

ではまた!



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