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最近の『理想の自分』。

こんばんは。
本日2記事め。

久しぶりに文章を書くと、脳がノッてくる。

さて、なんだかnoteさんが募集しているお題を見て
ふと書きたい衝動に駆られてこんなテーマにしてみた。

最近の『理想の自分』。

相変わらず、人生で成し遂げたい明確な目標はないが、
最近、ぼんやり思い描いていた『理想の自分』像が徐々に言語化できてきたので、記録も兼ねて記したいと思う。

まず、結論から言うと、
『周囲から、「あー、あいつ、楽しそうに生きてたな。」って思われて死にたい。』

いや、「死ぬこと」が目標になってしまってるやん。
まぁそこは置いておいて。

自分が死んだとき、
自分が大事にしている友人とか、家族とか、パートナーから、
『あいつ、なんだかんだいつも楽しそうだったよね』って思われたい。

お葬式とかやらなくていいし、
やるとしてもみんな喪服とか着ないで。お願い。
やるんだったらBGMで風さんの曲流して。
あと遺影は可愛く撮れてるやつがいいから、死ぬ前に希望出しとくわ。
(このオーダーを聞くのがもうめんどそう)

お葬式はいったん横に置いておいて。
「楽しそうに生きてたね」と思われるとはどういうことか。

それはおそらく、『私が私のやりたいように、生きたいように生きる』ということだ。
つまりどういうことか。
『自分の「好き」を大事にして生きる』ということである。

例えば、人。
自分が好きだな、大事にしたいな、一緒にいて楽しいな、落ち着くな…
と思う人のことは、心からその人の幸せを願いたいし、
その人の幸せのお手伝いができるなら、そうしたいと思う。

ただ、そのお手伝いができるようになるためには、
自分の人間力を磨かなくてはならない。

そう、人々が神社にお参りに行くように、
お寺で手を合わせるように、
自分が神社やお寺のような存在にならなければならない、ということだ。
(ちょっと目標が壮大すぎる)

さすがにブッダとかガネーシャとかそういう人にはもうなれないから、
せめてその人たちくらい心が広くて、
たとえ自分が大事にしている人が苦しくて醜い姿になってしまったとしても
すべてを受け入れてあげられるような、そんな存在になりたいのである。

で、たぶんそうなるためには、
出家とか修行とか、そういう道もあるんだろうけど、
この現実社会で生きていくやっていくとしたら、
さまざまな人たちをふれあい、その人の人生を知り、話し、思考を深め、
救いの手を差し伸べる練習をしなければならないのだと思う。
(うーん、まだ抽象的ではある)

とにかく、自分が好きな人たちを幸せにできる人間になるためには、
広い心や精神が必要であって、
それらを鍛えるためには、まずは色んな人間と向き合ってみるのが良いのだと思う。

人生、いろいろあるからね。
色んな人の人生を知って、自分の脳内辞書から生き方を索引できるようにな
りたい。


それから、純粋に自分の「好き」を追いかけようとしたとき、
ふと浮かんでくるのが、『表現する』ということだ。

昔から絵をかくのが好きだった。工作も好きだった。
文章は大の苦手だったけど、大学生くらいになってから好きになった。(上手くはないけれど。)

そして、何かとこれらで褒めてもらえることが多かった。
自信はなかったけれど、褒められるのは嬉しかった。
こういった、ある意味成功体験があって、表現することが好きになったんだと思う。

なので、この『表現する』ということを、
自分の「好き」を体現するために続けていきたいと思う。

そんで、自分が表現したものを、誰かが「好き」と言ってくれたらさらに嬉しい。
私の言葉や絵が、誰かにとっての「好き」になって、
さらには誰かの「救い」になれたら、私にとってこの上ない喜びである。

だから、私は自分らしく、自分の思うままに、表現し続けたいと思う。


さて。なので、まとめると、
私の理想像は、
『自分の好きな人たちの心の拠り所となって、自分の思うままに何かを表現して、楽しそうに死ぬ』
ことなのである。

理想像というか、人生のゴールだな。

まぁ、そんなところを目指して、ここ最近は生きているわけでございます。
正直、いつ何が起こって死ぬかなんて分からんし。

いつ死んでもいいように、生きたいように、生きやすいように、
ただただ、毎分毎秒を生きていくだけ。




まとまりがなくなってきたのでこの辺で。
最後までお読みいただきありがとうございました!

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