見出し画像

【感想】わたしが・棄てた・女

遠藤周作先生の
1963年発表の作品。

1960年代のこと。

貧乏学生吉岡は遊び目的で、文通を通じてミツと出会い、ミツの優しさに付け込んで無理矢理関係を持つ。

吉岡は初めから遊びのつもりでも、ミツには吉岡が生涯忘れ得ぬ人となる。

ミツは勤めていた会社を辞め
社会の薄闇に落ちていく。

吉岡は無事に就職し、出世目的で専務の姪マリ子と恋仲になる。
ミツが働いていた工場は、マリ子の父親の会社で、マリ子はミツのことを知っていた。

ある日、同僚に誘われた吉岡は風俗店に入り、思いがけずそこでミツの足跡を見つける。
ミツが乞食に恵みを施した礼にもらったロザリオである。
ミツが今でも吉岡を慕っていること、ミツの同僚から知らされる。

ある日吉岡は、ミツと再開し、ミツがハンセン氏病で入院することを告げられる。
吉岡は逃げるようにして別れる。

マリ子と結婚後、ミツのことが気になって吉岡は療養所に年賀状を送る。療養所からは修道女からミツの消息を告げる手紙が届いた。

ミツのハンセン氏病は誤診だった。
吉岡に分かれを告げて訪れた療養所でミツは、人生のドン底に落ちたと感じる。
そこでの生活を受け入れた矢先、誤診であったことを知らされる。
荷物をまとめ、東京に戻ろうとした駅で偶然にもマリ子に出会い、彼女が幸せに暮らしていることを知った。

ミツは考えた。

そして療養所に戻ることを決意する。
修道女の手紙にはミツが、療養所のタマゴを出荷しに行き、タマゴをかばおうとして交通事故で亡くなったことを告げていた。

わたしは周作先生と違い、キリスト者ではない。神の存在を信じていない。だから、「神はいるのか」などとの疑問は抱かない。
周作先生は作品の中で登場人物に語らせている。
「療養所にいる人々は、なんの落ち度もない、かえって親切で思いやりのある優しい人たちばかりなのに、神はなぜ、耐え難いような試練を与えるのか」
「どんなに過酷でも耐え抜き、生きていく修行が課せられている」

吉岡は良心に小さな呵責を感じつつ、それでも自分の幸せを実現させようと利己的な生き方をする。
吉岡に怪しげな仕事を紹介する金さんも小悪人であって、世渡りに長けた人物である。

現実に、わたしの周りにも他人のために自分は身を粉にして働く人が何人もいる。
仏門に身を置いたわたしも、自らが選んだ修行の道であると教えられている。
超えられない業はないのだと教えられた。
どのような境涯も、試練も、自らの魂を成長させるためにあると。
それでも、正直に、他者のために尽くすことを止めない人たちが報われる日を、生きているうちに迎えて欲しいと願わずにはいられない。





この記事が参加している募集

読書感想文

サポート、ありがとうございます。もっと勉強して、少しでもお役に立てる記事を送りたいと考えております。今後ともよろしくお願いいたします。