個性重視という言葉の弱点

前回不登校について、まとめたときに、様々な選択肢があれば不登校というのは問題にならないよねという話を書きました。

https://note.com/banbirokon/n/ncd997a823605

こうした考えの時に出てくるのは、「個性の重視」 という言葉です。例えば有名な臨教審の答申ではこんなことを言っています

臨時教育審議会 教育改革に関する第一次答申(昭和60年6月26日)
(1)個性重視の原則
今次教育改革において最も重要なことは、これまでの我が国の教育の根深い病弊である画一性、硬直性、閉鎖性、非国際性を打破して、個人の尊厳、個性の尊重、自由・自立、自己責任の原則、すなわち個性重視の原則を確立することである。

パッと見ると、画一的で閉鎖的な古い教育を辞めて、自由で個人を尊重した教育をしようという綺麗なことを言っています。
これを読むと、多くの人は「そうだよね!個性を重視するのは大切だよね」と思うことでしょう。

しかし、個性の重視という言葉には大きな弱点があるのです。

個性はいつ生まれるの?

「個性はいつ生まれるの?」というと「生まれたときでしょ?」と言うでしょうか?

しかし、「個性」というのは、個人の特性ですので、重篤な障害を除けば「個性」というのは生まれた時にはそんなに大きくありません。

しかし、前回の不登校の話も、この個性重視の話もそうですが、個性を重視した学校の選択ができるようにしようという思想になると、次のような図になりがちです。

一見、それぞれの個性に合った学校に行っていて、とても良いような気がしますね。

リンゴはリンゴの木、桃は桃の木、みかんはみかんの木に行くというのは非常に納得しやすい説明です。

しかし、注意して欲しいのは、生まれながらに、リンゴやみかん、桃に分かれているわけではありません。最初は似たり寄ったりですが、成長するにつれ、その生育環境と本人の特性が影響しあって、「個性」のようなものが出てきます。

そのため、最初からこの子は桃だからこっちというふうに、早期に分かれてしまうようなことは、問題があるのではないかと思います。

特に、エリート教育もフリースクールもそうですが、家庭の収入や親の考え方によって行けるところがちがうとなると、親の思想や家庭の経済状況によって、将来が決まってしまうという不平等な状況になる可能性があります。

例えばこのような状態が考えられます

裕福な家庭→エリート教育を行い早期から有名私学小にいれる→高い学歴を得る→高い収入を得る

子供の主体性を重視する家庭→オルタナティブスクールやフリースクールに入れる→学歴とは違う形で生きていく方法を模索する

貧困の家庭→公立の学校に入れる→貧困の再生産

このように生まれの収入や親の子育てに対する意欲で、子どもの将来が分断されてしまうことがありえます。

非常に極端ですが、分化が進んでいけば、公立の学校が貧困の家庭専門の学校になってしまうということもありえるかもしれません。

今までの教育は画一的で詰め込み的でありましたが同時に教育機会としては平等でした。
個性を重視して早期に分化してしまえば、この平等性は失われます。

個性重視の罠

そのため、あまり早い段階から個性を重視して、学校を分けてしまうのは平等性の観点から良い結果にならないと思われます。

もちろん色んな選択があることが、不登校等の話から大切であるのは間違い無いですが、そこには親の選択肢に任せるだけではなく、社会の必要なお節介として配慮が必要なのではないでしょうか。

実際、学校というところは非常にお節介な所です。
余計なお節介もあると思いますが、必要なお節介ももしかしたらあったのかもしれません。

なので、個性重視も画一的な教え方もバランスが大切です。どちらかに極端な振れ方をしてしまえば、暴走してしまうことでしょう。
個性重視を極端にすれば、生まれたときの家庭環境で子どもの将来を決めてしまいます。
画一的な教育を極端にすれば、金太郎飴のような同じことしかできない人を量産して、かつその基準に合わない人を切り捨てることになります。

バランスが大切

もちろん現在の社会では、画一的な教育が進みすぎたので、その反動か、個性重視がよく言われます。実際今必要な考え方は、主体的な教育であったり、個性重視であるとは思います。しかし、その時に個性重視は善で画一的は悪と極端に考えがちです。

極端に振り切れないように、また議論が平行線にならないようにするためにも、個性重視も画一的な教育もどちらも必要であるという認識が必要ではないでしょうか?

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