部活の意義の歴史

教員の働きすぎの問題もあって、その一つに部活動が、教員の多忙化に一役かってるのではないかと話題になりましたね。

教員は残業代が出ない(基本給の4%はじめから残業代ときてついているだけ)にもかかわらず、部活動は平然と行われています。
これらは、教員の方々の奉仕活動によって成り立っています。ではなぜ、部活動はそこまでやるようになったのでしょうか。

(出典)加藤一晃「部活動は学校において合理的な活動か?」片山悠樹編『半径5メートルからの教育社会学』大月書店

図のように中学校では9割近く、高校では8割近く加入していることがわかります。
地域によれば、部活動全員加入が義務になっているところもあるようです。
なぜでしょうか、どんな意味があるのでしょうか?今回は歴史を見ていきましょう。

戦前の部活動

戦前では明治時代に外国からもたらせた文化として、部活動は輸入されました。その先駆けとなったのが帝国大学(現在の東京大学)です。
帝国大学では、「帝国大学運動会」という団体が作られ、学校外のスポーツを取り入れました。その後、他の高等教育機関に部活動は広がっていき、ついで、中学校、小学校にも広がりを見せていくこととなります。

当初はスポーツの振興に加え、精神の鍛錬や紳士の育成を目指す理念もあり広められたのいわれています。
教育の中で意義があるとみなされて広まったということですね

戦後の部活動

戦後初期から順に中澤さんの本をもとに、部活動を見ていこうと思います。

1945年から1953年までは

スポーツ自体が民主的で自主的なものと見なされたことに加え、それが民主主義的な人間形成の手段としても効果的だと捉えられていた

スポーツ=民主的という構図で、部活動に意義を持たせていたようです。

1954年以降になると、東京オリンピック(1964)との関係で部活動に意義がもたらされました。今も選手育成という観点で部活動を擁護する人がいるのはこの時期からですね

一部の選手を中心に活動くる傾向をみせ、生徒加入率がやや減少

とあるように、選手育成と自由で民主的なスポーツという意義は互いに対立してしまったようです。

東京オリンピックが終わると今度は

子どもの自主性という教育価値が見出されるスポーツを、すべての子どもに提供することが目指された

民主主義的な意義がまた流行し、必修クラブ活動も始まり、部活動は広がっていったようです

しかし、高度経済成長期になると

教師の言葉に耳を傾けず、指導に手を焼く非行生徒であっても、好きなスポーツであれば自分から自主的に楽しもうとする、だからスポーツを通せば、非行生徒に指導の手を届かせることができる

ちょうど、詰め込み教育により、落ちこぼれや学校に対する反発が起こっていた時期でした。
そうしたこともあって、スポーツを通して、子どもを管理しようという意義がついていきました。
非行の防止として、部活動が推奨され、また今でもあるように、全員加入といった措置が取られるようになったのでく。

部活動の意義

こうして、学校で部活をやる意義は作られていきました。スポーツの振興や選手育成といった、スポーツをしている大人側の視点であったり、自由で民主的なスポーツという理念的な視点であったり、管理教育の非行生徒をなんとか学校に留めておこうという、教師側の視点であっありと、多種多様です。下の図のようにいろいろな意義があります。

ただ残念なことに長いことやっていると、それが習慣となり変えることが難しくなります。

現在の部活動に意義がないとは言いません。
しかし、多忙な教員に部活動の顧問で時間を割く意義があるほどメリットがあるのかと言われれば疑問があります。
少なくとも全員加入は管理教育の賜物ですし、その意義は現在どこにあるのでしょうか?

なんでもやった方がいいというのは簡単ですし、教育はなんでもやった方がいいと結論付けやすいですが、時間やお金、人材を考えて、優先順位をつけてやめることも大切なことではないかと思います。


参考文献
中澤篤史(2014)『運動部活動の戦後と現在ーなぜスポーツは学校教育に結びつけられるのか』青弓社



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