フリースクールの歴史

以前不登校を図にしてみるという記事を書きました。

https://note.com/banbirokon/n/ncd997a823605

不登校というのは、起こるものですし、単一の原因があるものではありません。
文科省も「不登校は誰にでもおこりうる」(文科省1992年)と言っているので、学校以外での育つ場所が必要でした。そういう意味で、不登校の子どもの受け皿として、発展していったのは、フリースクールでした。

今回はこのフリースクールの歴史について説明していきたいと思います。

フリースクールってなに?

まず、文部科学省によると,不登校とは

「何らかの心理的,情緒的,身体的あるいは社会的要因・ 背景により,登校しないあるいはしたくともできない状況にあるために年間30日以上欠席した者のうち,病気や経済的な理由による者を除いたもの」

となります。病気や経済的な理由を除き、学校に年30日以上欠席した子どもたちです。

こうした、不登校の子どもたちに「居場所」が必要だと運動を起こしていったのが、日本のフリースクールでした。

フリースクールに定義をつけるならこうなります。

フリースクールとは、公的な制度上の学校の枠 組みを超えて、自由な教育活動を志向する教育団体または私塾を指す

出典(斎藤富由起(2016)「フリースクール」斎藤富由起・ 守谷賢二(編)『教育相談の最前線―歴史・理論・実践』八千代出版.)

日本の場合は、不登校の子どもたちの「居場所」として独自に発展してきたフリースクールと、海外のオルタナティブ教育施設との交流を得て発展してきたフリースクールがあります。

フリースクールと言っても画一的ではないということですね。

オルタナティブスクールは、現在の公教育とは別の方針・理念をもって運営されているスクールの総称です。意味はフリースクールと同じですが、不登校の居場所に特化したイメージを持つ日本のフリースクールに対抗して、不登校の居場所だけではない、より積極的な意味で使っているのでしょう。

フリースクール設立とその背景

フリースクールの設立を語るには、1970年代の日本の学校について語らなければなりません。
1970年代、高度経済成長期であること、冷戦化にあったことなどから、詰め込み的な教育と受験競争が加熱していました。

そのため、学校に行くのは当たり前という価値観が、非常に強く浸透していきました。
ご存知の通り、私たちが学校に行くのは当たり前だと思うようになってから、それほど長い時間はたっていません。

出典(文部省HP https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad196201/hpad196201_2_011.html)

グラフの通り、義務教育が一般化していったのは、明治期の終わりですので、学校に行くのが当たり前というのは、わずか100年ほどのことです。

義務教育から高等学校に進学するのは戦後に急速に普及していきました。そして、1970年代にはあっという間に80%を超える進学率を叩き出しています。

高校進学が一般化するということは、同世代の多くが人生で一度は受験を経験するということです。
そのため、受験をすることに強い価値がついていくようになりました。
その影響で、偏差値によるモノサシも強くなることとなります。当時の激しい受験競争は、落ちこぼれを大量に生み出すことになりました。
また、学校に行くことが疲れてしまう子が出てきても何ら不思議ではありません。

こうした中で、1985年に、「東京シューレ」という代表的なフリースクールが誕生しました。
子どもたちの自己肯定感を守り、子どもたちの人権を尊重した居場所を作ることを目的とした、フリースクールが東京シューレの実践を追うようにできてきました。

余談ですが、当時、「不登校」は登校拒否と呼ばれていました。

1990年代登校拒否から不登校へ

1990年代に入ると不登校の統計が変化しているため、急激に増加しているように見えますが、91年から不登校の集計が50日以上欠席から30日以上欠席に変わってしまったためです。
しかし、90年代は増加傾向にあったことは間違い無く、戦後すぐの不登校のような、家庭の経済的問題で学校に行けないとは別に、心理的に、学校に行きたくない、または行けないといった理由が増加しているのが特徴となります。

不登校数が増えれば、それに呼応するように、フリースクールも増えていくことになりました。始め、フリースクールと文科省は大きく対立していました。
理由は簡単で、文科省が不登校を病気や非行の一種と捉えていたからです。

しかし、1992年の文科省の通知では、「不登校は誰にでも起こり得る」という文言がありました。この見方は従来、「治療対象」や「怠学・非行の一種」だと捉えられていた不登校への見方を変えていくきっかけとなりました。

揺れ動く2000年代

2003年の文科省の通知では、「ただ待つだけでは状況の改善にならない」などの文言がありました。その後、子どもの状況を無視した登校圧力や「不登校半減政策」など数値目標を掲げた政策が見られるようになりました。

1992年の通知に比べると、不登校を問題とする論調に戻ってしまったようです。
余談ですが、この時期はあの「ゆとり教育」が始まった時期です。既にゆとり教育が甘やかしだとか、学力が落ちるなどと言われて批判されたので、不登校に強く当たったのかもしれません。

不登校の理解が広まる2010年代

2016年9月、文科省が全小中学校へ向けて「不登校を問題行動と判断してはならない」との見解を含む通知を出しました。
ついに文科省も、不登校は問題行動ではないと、明言したわけです。

この頃になると、フリースクールと文科省の対立は非常に弱まっていました。2000年代には、フリースクールに通っている子どもも、義務教育を卒業したことを認める風潮もでてきました。

同じく2016年には教育機会確保法が成立しました。
この法律は当初、フリースクールを義務教育の学びの一つとして、認めるといった内容でしたが、フリースクール関係者の間で意見が分断されてしまい、結果として児童生徒の状況に応じた情報提供や助言を促す程度の法律になってしまいました。

不登校を学校に戻すのも支援だと言い張れば、この法律を利用できる可能性もあるため、あまり不登校をよく理解した法律とはいえないでしょう。

まとめ

フリースクールの歴史は日本の場合、不登校の歴史と密接に関わっています。
特に、不登校の子どもの居場所として発展してきたフリースクールは、不登校が問題行動であるとか病気であるとかといった、まなざしと対立していました。

フリースクール関係者の努力もあり、不登校に対する見方が変化してきているということは、今回の記事からもわかると思いますが、教育機会確保法のように、未だ不登校の子どもたちの学びをどのように保証するのかは、議論の途中と言えます。


 

斎藤富由起(2016)「フリースクール」斎藤富由起・ 守谷賢二(編)『教育相談の最前線―歴史・理論・実践』八千代出版.

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