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塩を売って緑を買う男・バンベン。 ビジネスを通して内モンゴル・オルドスの砂漠緑化と佐賀…

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塩を売って緑を買う男・バンベン。 ビジネスを通して内モンゴル・オルドスの砂漠緑化と佐賀県小城市の里山再生を実現します! 砂漠緑化:https://www.facebook.com/banben.ordos 里山再生:https://www.facebook.com/ogipac

マガジン

  • バンベン設立20年の軌跡(2004~2024)

    2024年2月1日 バンベンの新年度がスタートしました! 今年はなんとバンベン設立20周年!(初めてオルドスの地を踏んでから33年)。 去年は「第2の創業」ということで営業に力を入れた結果、売上も何とかコロナ禍前の水準に戻りつつあります。 今年は10月にオルドスで新しい方式の植林が控えています。 それまでに塩のビジネスを安定成長に乗せること、小城やオルドスで生まれつつあるビジネスの芽を見極め育てること、それとこの20年を振り返り、想いを新たにし、これからの20年の糧にしていきたいと思います。

  • 体験記「オルドスの風」

    1991年9月。青年海外協力隊日本語教師隊員として中国内モンゴル自治区・オルドスのモンゴル族高校に派遣されました。 自ら望んで行ったわけではなく、半径500キロに日本人いないから頑張れよ、と協力隊事務局からこの地に飛ばされた?不安でいっぱいのスタート・・・。 そこから3年間孤軍奮闘。オルドスが「第二の故郷」と呼べる地になっていました。 そして30年後の今もこの地とつながっています。あの時の「教え子たち」と「砂漠緑化」で。 今後30年間「砂漠緑化」というライフワークを続けるために、ここで原点であるはじめの3年間をゆっくり振り返ることにしました。 主に自分自身を元気づけるための体験記ですが、ぜひ関心のある方にもご覧いただきたいと思います。よろしくお願いします!

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塩を売って緑を買う男の挑戦・・・。

こんちには!バンベンの坂本です。 私が1991年に青年海外協力隊員として派遣された中国・内モンゴル・オルドス。そこは草原がどんどん砂漠に変わっていました。 オルドスは砂漠化の最前線であり黄砂の発生源でもあります。 「第二の故郷であるオルドスを元の緑に戻したい」そんな想いを抱きながら私は貿易会社や国際協力機関で少しずつ経験を積み資金を貯め、行動を起こすタイミングをじっと待っていました。 そして2005年、砂漠緑化を実現する会社「バンベン」を設立。内モンゴルの特産物で

    • BanBen's History Vol.1(2004年)

      2004年2月にJICAボランティア調整員の任期終了後、すぐオルドスに赴いて教え子のつながりで植林地を決定。その他5月、7月、8月、12月と計5回オルドスを巡り、砂漠緑化以外に観光・農業・教育などの分野での協力の可能性を探りました。どこに行っても60度のオルドス白酒が付きまといます。宴会は時には辛いものでしたが、お互いの信頼関係を確かめる大切な儀式と割り切って何とか乗り切りました。特産物の販売についてはカシミヤ・乳製品・漢方・絨毯といろいろ検討しましたが、最終的には塩の販売に

      • 46,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その3)

        そして、実際にオルドスに行くことになる。ただその前に困難が立ちはだかった。 2003年。中国はSARS(重症急性呼吸器症候群)によって大変な事態になっていた。中国各地にいる隊員80人と毎日連絡を取りながら、職種や地域によって強制帰国。比較的安全な職種・地域の隊員は留まるか帰国か話し合って決めた。一番危険は北京にいた我々JICA職員は帰国組、自宅待機組、事務所出勤組の3グループに分かれてそれを1か月交代で順番に回していくという綱渡り状態。僕は5月は事務所組、6月は自宅待機組、

        • 45,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その2)

          せっかく辞めたのだから失業保険をもらいながらしばらくのんびり。当時は起業して砂漠緑化をするのではなく、会社に就職してその会社を説得して社員の身分で自分のやりたいこと=「オルドスの砂漠緑化」に取り組んでいきたいと思っていた。 遊園地はだめだった。次は何にしようか。暇だったのでよく図書館に行って新聞を端から端まで読んでいた。当然求人欄も目を通す。ある日、これだと思った求人があった。教育関係の会社。「日本語学校新設に伴い日本語教師募集。」これだと思った。日本語学校を作り、そこにオ

        • 固定された記事

        塩を売って緑を買う男の挑戦・・・。

        • BanBen's History Vol.1(2004年)

        • 46,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その3)

        • 45,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その2)

        マガジン

        • バンベン設立20年の軌跡(2004~2024)
          1本
        • 体験記「オルドスの風」
          46本

        記事

          44,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その1)

          オルドスを離れて1か月間、一人でゆっくり中国を旅行しながら、自分の進路について考えていた。やりたいことをシンプルに突き詰めていくと答えは一つしかなかった。オルドスの砂漠を緑に戻すこと。 1994年8月、無事日本に帰国。しかし帰国から2週間後、再びオルドスの地に立っていた。すっかり「砂漠緑化熱」にとりつかれていた。しかし、どこからなにを始めていいかわからない。とくかく一刻も早くオルドスでの砂漠緑化事業早く立ち上げなければ・・・。想いばかりが空回りする。隊員時代お世話になった砂

          44,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その1)

          43,将来に向けて、そしてお別れの時

          1994年3月に、また、早大生がやってきた。このように中身のある交流をきっかけに、また文通の輪が広がった。生徒の中には2人、3人と文通相手を増やしていく強者もいた。 3年の後期、生徒たちは4ヵ月後に受験を控えている。その頃から、自分の将来について熱っぽく語りにくる生徒が多くなってきた。中には日本関係に進みたいという生徒も出てきた。「僕は、今は理系だけど、日本語に興味があるから、1年浪人して、日本語学科を目指す。」という生徒。「今、オルドスでは砂漠化が進んでいて、実家の放牧も

          43,将来に向けて、そしてお別れの時

          42,事件

          ボクの部屋には訪問者が多かった。知り合いはもちろんのこと、まったく面識もない人がよく部屋を訪れた。いきなり部屋に入ってきて、「日本語を教えてほしい」と言ってくる若い女性。「俺は何でもやる。苦労を厭わないから是非日本へ連れて行ってくれ」と言ってくるむさ苦しい男性。「日本のカメラを買ったんだが説明書を中国語に訳してほしい」と言ってくる厚かましいおばさん。などなど・・・。 断ったり、少し相手をしてみたり、まったく知らない人でも適当に付き合っていた。うっとうしく思うこともたびたびあ

          42,事件

          41,砂漠へ

          任期を年延長しなければ砂漠緑化をライフワークにしてなかったかもしれない。 1993年10月、東勝から150キロほど離れたクブチ砂漠のオンカクバイというところで日本の植林ボランティアの人々と共同で木を植えるという活動を行った。これは前から是非やりたかったイベントだった。ボランティア団体に費用を負担していただき、学校側に何度も働きかけた結果、季節的にも、受験を控えている生徒たちにとってもタイムリミットであるこの時期にやっと実現した。ただ物理的な理由から、先生10名、生徒10名し

          41,砂漠へ

          40,任期の延長

          ボランティアの任期は2年だった。しかし、文通や日本の学生との交流も経験したせいか、生徒たちの日本語に対する意欲は高まるばかりだった。それに高校1年から、持ち上がりでずっと教えてきたのですっかり愛着が湧いてきた。どうせ日本に帰っても何もすることが決まってなかったし、なんとか彼らが卒業するまで見届けたいと思って、任期を1年延長することにした。 しかし、生徒たちは高校3年生。中国の受験戦争は日本よりも厳しく、この時期日本語を教えるということは、日本の高校3年生の生徒に教養科目とし

          40,任期の延長

          39,チンギスハン陵

          チンギスハンは今でもモンゴル族の英雄。その陵はオルドスのほぼ中央のイジンホロというところにある。東勝から南に車で1時間。前述のとおり、チンギスハンが西夏遠征時に鞭を落としたとされるところ。今は古代のモンゴル宮殿を模した3つのドームを有する巨大な建物が聳え立っている。実際はここにチンギスハンが眠っているわけではないが、年に4回祭事が執り行なわれ、モンゴル民族の聖地となっている。ボクは何度もこの陵を訪れたが、特に早春の祭事を学校の先生たちと見に行ったときは印象深かった。 その日

          39,チンギスハン陵

          38,天使と悪魔

          中国で暮らす場合歴史のことはしっかり抑えておかなければいけない。ボランティアとして派遣される前に言われていたことで、特に近代史については一通り勉強しておいたつもりである。ただ普段中国で生活していて戦争のことについていろいろ聞かれることはほとんどなかった。だが、3年間もいると色々な場面に出くわす。 ある日、仲のいい先生のうちに行ったとき、小学校6年生の娘さんとしばらく話をしていたが、その子が何気に「昔、日本人がたくさんの中国人を殺したこと知ってる?」と聞いてきた。すると間髪を

          38,天使と悪魔

          37,文通大作戦その後

          最初に文通を始めた9人の生徒に届く日本からの手紙の影響は絶大で、その後も多くの生徒が文通を希望した。ボクもあらゆる機会と捉えて、文通の機会を作った。もちろん交流会の後、早大生との文通も始まった。 しかし順調に続いたものもあるが、途絶えたものもある。なぜ途絶えてしまったのか。いろいろ原因はあると思うが、モンゴル族の生徒にとっては日本語で手紙を1枚書くにも、大変な労力を費やす。それに文通とは回を重ねるごとに内容がより深く、細かくなっていくものだが、彼らのその時の日本語のレベルで

          37,文通大作戦その後

          36,日本人との交流

          オルドスは砂漠化が進んでいる。ちょうどボクの活動が始まった1991年から、東勝の北西150kmほどのところにあるクブチ砂漠に日本のNGOが入って、砂漠緑化を進めていた。ボクはまたとないチャンスとばかりに、そのNGOの方々にボクの生徒たちとの交流を働きかけた。そして交流が実現するときがきた。 1993年2月、早稲田大学の学生を中心とした「緑の訪中団」10名がクブチ砂漠での砂漠緑化の合間に蒙古族中学を訪れたいとの打診があった。この頃になると、校長を始めとした学校の指導者たちも少

          36,日本人との交流

          35,大晦日のパーティ

          教室外での生徒との交流はたくさんあった。これは部屋が1年目は校舎、2年目からも生徒の宿舎の近くだったということもあるし、同じような条件で生活をしているので、一体感が沸いてくるのかもしれない。食堂もトイレも同じ、同じように水を汲みに行くし、同じように洗面器で洗濯をしていた。 でも、本当にいろいろなことを語り合ったり、深い付き合いができていたのはごく少数だった。基本は日々の授業。あとは僕の部屋で日本語とモンゴル語で話し合ったり、外でバトミントンやサッカーをしたり、ほとんどの生徒

          35,大晦日のパーティ

          34,隣のくまさん(その2)

          クマさんは人付き合いがいい。友だちがたくさん彼の部屋を訪れる。夜だとたいていその後、外に出かけるか、その場で酒盛りが始まる。ボクも時々誘われた。楽しめることもあったが、酒はたくさん飲まされるし、それ以外のときはモンゴル語でしゃべり合うのでボクは蚊帳の外。つまらなくなり先に引き上げるというパターンが多かった。 時々、彼らの酒盛りは深夜まで続く。隣で寝ていると、大声で騒ぎ歌い、まさにドンチャン騒ぎ、当然寝られない。寝られないだけじゃなく徐々に自分が惨めになってくる。隣がにぎやか

          34,隣のくまさん(その2)

          33,隣のくまさん(その1)

          1992年9月ようやくボクの家が完成した。場所は校舎の北側、生徒たちの寮の隣。若手の先生数人と生徒たちが手伝ってくれたので引っ越しはあっという間に終わった。レンガ造りで外門があり、中庭もある。平屋の建屋は2つに分かれていて奥が僕の部屋、手前が若手の先生、クマさんの部屋だった。僕の部屋の広さは8畳くらい、校舎のときより心持広くなった。台所・シャワー・トイレはない。水道もない。基本的な条件は何も変わっていない。まあ、食堂や水場が近いので少しだけ便利になった。それと働く場所と寝る場

          33,隣のくまさん(その1)