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46,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その3)

そして、実際にオルドスに行くことになる。ただその前に困難が立ちはだかった。

2003年。中国はSARS(重症急性呼吸器症候群)によって大変な事態になっていた。中国各地にいる隊員80人と毎日連絡を取りながら、職種や地域によって強制帰国。比較的安全な職種・地域の隊員は留まるか帰国か話し合って決めた。一番危険は北京にいた我々JICA職員は帰国組、自宅待機組、事務所出勤組の3グループに分かれてそれを1か月交代で順番に回していくという綱渡り状態。僕は5月は事務所組、6月は自宅待機組、7月に帰国できるかと思ったら急激に感染が収まって帰国を果たせず。その後SARSが沈静化し、一時帰国していた隊員たちも続々と中国各地の任地に戻っていった。

大きな困難を乗り切ったそんなある日、教え子のスレンから「同窓会」の招待状が届いた。何か目に見えない「力」が僕をオルドスへ引き寄せていた。これは何としても行かなければ・・・。JICAの仕事は多忙を極めていたが無理を言って3日間休みを取って9年ぶりにオルドスに行った。

2003年8月。モンゴル族は9という数字を大切にしていて、卒業して9年を機に初めての同窓会を開くとのこと。9年ぶりとあって盛大な会になった。そして三日三晩ひたすら60度のオルドス白酒を飲み続けた。最後のほうは朦朧として記憶もおぼつかないが、とても幸せな時間。その中で一番感じたことは教え子たちの成長ぶり。もちろん僕も貿易の仕事をしたり、国際協力の仕事をしたりして少しは成長したと思っていたが、それより「あの時」高校生だった彼らがいつの間にか立派な社会人となってオルドスで活躍していた。教師になった者、医者になった者、弁護士になった者・・・、村長になった者もいる。みんなオルドスでがんばっている。そして協力隊時代に思い描いていたオルドスの砂漠緑化は今なら、彼らとならきっと実現できる、そう確信した。

1993年の同窓会。

そして同窓会の場で、「来年からオルドスの砂漠緑化に取り組んでいきたい」と宣言したところ、教え子の一人で村長になっていたスヤラトが「先生、それならまずうち村を見に来てください」と言ってくれた。彼は高校時代、モンゴル相撲のチャンピオンだった。9年後その腕力で?20代にして村長に出世していたのた。

「運命の同窓会」を経て、僕の進路は決まった。史上最大の人生の選択。進路というよりライフワークだ。一生賭けてやっていこうと腹をくくった。後はどういう方法でやるかだ。どのようなやり方で緑化事業を進めていくかについては相当悩んだ。

まずJICAに勤めていた経験を活かしてODA(政府開発援助)を使って何億円の資金と最新の技術を投入すればあっという間に緑化が実現できるのではないか、と考えた。しかし、ODAには計画から実施まで時間がかかる。それに一旦実施が決まったら融通が効かない、援助終了後、うまく現地に引き継がれない、などの例もあり、全てがうまくいくとは限らない。膨大な税金を費やして、うまくいかなかったら大変なこと。とても責任が取れるものではない。

次に考えたのはNGOを立ち上げて、寄付や助成金を受けながら緑化事業を進めていくというもの。組織力を活かせる面もあるが、逆に組織が大きくなるといろんな意見が対立し、身動きが取れなくなる可能性もある。また、資金を外部(寄付や助成金)に頼っていたら、景気が悪い時にはなかなか資金が集まらずに継続した支援は難しくなる。何より、NGOのリーダーと言うのはカリスマ性がなければ人も金も集まらない。ボクには向いていないようだ。

継続性がありかつ自分に合ったやり方とは・・・。最後にたどり着いたのが、「一人でビジネスを興す」ことだった。この方法だと最初は規模が小さくてもビジネスが続けば緑化事業も継続できる。緑化事業は何十年何百年と続けなければ意味のない事業。それを実践するのに一番必要なものは「資金」。資金の面で自立できれば継続性が生まれる。そこで考えたのが「内モンゴルの特産物を日本で売って、その売上の一部を内モンゴルに緑化に投入する」という循環型のビジネス。動けば動くほど広がるビジネス、買物で世界を変えられる仕組み・・・。砂漠化に苦しむ内モンゴルの人々と自分だけでなく販売業者や消費者など、そこの関わる全ての人と地球がハッピーになるビジネスができれば、それが砂漠緑化の最高のカタチになるはず。そして一人で始めるやり方も自分に合っている。自立でき、マイペースで、気が楽・・・。

もちろん欠点もある。最初は規模が小さい、助成や寄付は受けにくい、商品が売れなければ野垂れ死ぬリスク、前例がないので何をどうしたらいいか悩む・・・。

とにかくアクション、動きながら考えていこう。内モンゴルと言えば石炭・天然ガス・レアアースといった地下資源やウール・カシミヤなどが有名だが、個人としては扱いにくいものばかり。

そこで目を付けた特産物が「塩」。内モンゴルでの3年間でモンゴルの塩の美味さは身に沁みて感じていた。モンゴル高原はかつて海だったので岩塩や湖塩が採れる。塩辛いだけでなく、ほのかな甘みを感じさせる塩。肉や野菜など素材の味を活かす塩。モンゴル料理の味付けはほとんどが塩ベース。とてもシンプルだが逆に言うとソースや香辛料などでごまかすことなく素材の味がそのまま感じられる、とても贅沢な料理とも言える。そして素材の味を引き出すのがモンゴルの塩。これがビジネスを始めるのに一番適している。「塩を売って緑を買う」題して「オルドスの風」プロジェクト。

チャンスンマハ(羊の塩ゆで)

 2004年2月にJICAボランティア調整員の任期が終了し日本に帰国。帰国して2週間後にはまたもやオルドスの地に立っていた。しかし10年前とは違う。今度は社会での経験も積み、資金も少し貯め、砂漠緑化をライフワークにするという明確なビジョンを持ってオルドスに乗り込んだのだ。

さっそく教え子のスヤラトがいたスージー村を視察。そこの人々は緑化に対する意識が高く、地下水も豊富で、ほんの30年前までは灌木の生い茂る緑豊かな場所だったとのこと。何より教え子がリーダーを務めていて活動がスムーズに行えそうなのでその村の砂漠化した土地「ウランダワ砂漠」を最初の植林地に決めた。「ウランダワ」とはモンゴル語で「赤い丘」という意味です。かつては「紅柳」という灌木が生い茂るところだったとのこと。面積は6,000ha、で村の3分の1を占める。

スージー村の人たちと。

植林地は決まった。次は「塩」探し。2004年8月に教え子らと3人でオルドスの塩の産地を視察。しかしどこも塩は美味しいのだが、規模が小さく、とても輸出できるような体制ではなかった。いろいろ情報を集めて、オルドスの西隣に内モンゴルで一番大きな塩工場のあることをつきとめ、早速、その塩工場のある吉蘭泰(ジランタイ)へ向った。そして貿易担当者と商談。「内モンゴルの砂漠緑化の資金稼ぎのためにここの塩を日本で売りたい」と伝えるとその担当者曰く「じゃ、あなたは何千トン買ってくれるのか」「いや、一人で始めるのでまずは5トンか10トンくらいで・・・。」「それでは話にならない。コストが合わない」あっけなく商談決裂。ただその担当者は最後にいい情報を教えてくれた。「実は日本にはすでに年間何千トンも扱う総代理店がある。岐阜県にある木曽路物産という会社だ。」

ジランタイの塩採掘現場
塩湖
岩塩

日本に帰国後、すぐに岐阜県に向かい木曽路物産のS社長に直談判。ダメ元だった。見ず知らずのしかも商売経験のない人間を相手にするはずがない。しかしとにかく話を聞いてもらえることになった。必死だった。「塩」が手に入らないと「オルドスの風」プロジェクトが始まらない。協力隊時代に経験した砂漠化の恐怖。植林体験、教え子との絆、緑化計画・・・。滔々と訴え続けた。黙って話を聞いていたS社長が一言。「志がいい。まだ九州でモンゴルの塩は広まっていないので九州の代理店として大いに塩を売って砂漠緑化に貢献してほしい。」さすがの即決。S社長も内モンゴルとのつながりで利益を得ていたので、それを還元したいという想いはあったのかもしれない。S社長の商売度外視の?ご厚意により、モンゴルの塩を主に九州で売ることになった。塩だけでなく、重曹・クエン酸・麦飯石などの内モンゴルの天然素材も販売できることになった。

こうして自分でも驚く行動力と幸運に恵まれ、2004年9月24日に個人事業の形で「塩を売って緑を買う」バンベンを立ち上げることになった。

そして現在進行形でこの物語は続いている・・・。

バンベンのロゴ


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