主体性という病 〜教師が奪う主体性〜

近年の学校教育のキーワード「主体性」
近年というより、もうずっと言われているような気もしますね

児童生徒に主体性が育たないのはなぜか?
教師や学校が主体性を奪っているから。
だと私は捉えてます。

元々、人って主体的な生き物。
教育なんかされなくても、主体的に生きるものなんですよね。

話は冨岡製糸場の時代まで遡ります。
富岡製糸場。産業の近代化のため、明治政府が作った官営製糸工場。

工場に働きに来たのは、元々、農業を生業として暮らしていた人たち。
時間なんて概念はなく、日が昇ったら働き始めて、日が沈むまでに仕事を終える。
人が集えば、雑談しながら作業することもあったでしょう。
言わば、主体的な人たちが、主体的に働いていた時代。

そんな人たちが工場で働くようになると問題が出てきます。
・時間が守れない。元々時計なんて見ていなかったので、遅刻なんて概念がない。
・工場長、上司の指示を聞けない。元々自分で考えて行動していた人なんで、人に言われた通りに動くと言う概念がない。
・作業の手を止めて、話しを始める。

その問題解決のために作ったのが、学校であり、学校制度。
始業時間を守る。
上司の言うことを聞く。
指示に従う。
決められた持ち場で、黙々と作業する。
と言うことに価値を置いていました。

学校の持つ価値観を利用して、
戦争が始まると、軍人に従順な兵隊を量産し、
戦争が終わると、企業や組織に従順なジャパニーズビジネスマンを量産してきました。

もちろん、学校や日本式の教育は世界から評価されている部分もあります。
犯罪発生率が低く、治安が良いことに寄与しているのは間違いないですし、東日本大震災の被災地で、長い時間、列に並ぶ姿は海外から賞賛されました。

一方、過労死という言葉。
欧米にはない概念で、英語の辞書にもKaroshiと載っているそうです。
学校文化の価値観が、過労死やパワハラ上司を生み出していることも明らかです。

主体性を奪い、従順な労働者を育成する。
それが、学校に課せられたミッションだと捉えると色んな事象がしっくりきます。

理不尽な校則→上司の指示や社内規則に従順に従う人材を育成するためには適しています。何かあるたびにルールを作ることも主体性を奪い、従順な人材を育成する目的には適っています。
教室内の机の配置→教師(上司)目線では、子ども(労働者)を監視したり、指示を出すのに最適化された配置になっています。勤務校の場合、職員室も管理職が管理しやすい机配置になってます。


文部省や学習指導要領が掲げる主体的対話的で深い学び
明治から150年以上続いている学校文化の大転換をしれっと打ち出しています。
私はそう捉えています。

学校文化の中で、主体性を育てるのは無理ゲーでは?
そう思う自分がいます。

今回の記事での結論!
学校や教師が変わらずして、子どもに主体性なんて求められません。

学校文化に風穴を開けたい。
まずは私が主体的な人間でありたい。

ハチドリのひとしずくですが、自分のできることをやっていますし、これからも
続けていきます。

今日はここまでにしておきます。
ここまでお付き合いくださいましてありがとうございます。

次回は、主体的な人間、そして教員であるために、やっていること、やって行きたいことをまとめます。











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