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孤独のバイアス、アイデンティティのパラドックス

孤独感とは本来的な意味で「孤独」な人間には訪れず、人は誰かと接触をすることにより、孤独感を味わうものである」というようなことが、高校生の頃に読んだ医療系エッセイの中に書かれていたことを時々、思い出す。

それを誰が書いた文章だったか覚えておらず、また、原文が英語だったのでニュアンスが違うかも知れない。・・そもそも孤独というものは「我々が一人である」と感じる時に自覚するものではないのだろうか?

他人の存在を知覚することにより孤独感が増すというシチュエーションはパラドックスを抱えているように感じる。少なくとも、その人間が「独りである」という状況と矛盾している。

Sparksの「I Married Myself」では自分自身と結婚するというパラドキシカルな歌詞が展開されるが、これは、人間同士のコミュニケーションが抱えるパラドックスそのものである。

ジャック・ラカンの精神分析理論で言うところの、実存は「現実界」に存在するが、人間同士のコミュニケーションは「象徴界」、つまり言語のフェイズで行われる。

例えば、主体自身が個々人の特性を語る時、それはレッテルとなり、そのものと同じ属性を持つものにしか共感不可能であるという一種の拒絶を表す・・そもそも、「現実界」に起きる事象は言語によって媒介されるが、言語による伝達は記号的であるため、「精密」ではあっても「厳密」足り得ない。

「私は悲しい」と誰かが言ったとして、経験則で程度を測り知ることはできるかもしれないが、実際のところ感覚的・感情的なキャパシティは人により異なるため、どの程度どんな風に悲しいかは、本質的には共感不可能な感覚である。

だが、「悲しいね、辛いね」と共感することは人間のコミュニケーションとして当たり前のように存在する・・このパラドックスに目を瞑ることを経験として人間は学び、違和感を感情や絆などの関係性で補完する。

(いわゆる、「わかっているが、でも」というシニシズムのイデオロギーだろうか)

アイデンティティという言葉を作ったエリクソンは、アイデンティティを形成するための準備期間を青年期にあるとし、一種のモラトリアムであるとしたが、

<他者>と対峙するにあたり主体は自分自身を認知する、しかし、主体そのものは、主体の認識に先立って存在している・・つまり、社会的行為やコミュニケーションによって主体(=私)は発見されるけれど、私とはそもそも発見される前から存在している、という、パラドックスを持っている。

私自身を私たらしめるもの、これが私自身であるというもの、「アイデンティティ」と呼ばれるもの、それは一体何なのだろうか?

原理主義者の一部は「適切なアイデンティティ」を欠いているとジジェクは述べたが、それは、ルサンチマンの存在しない本来的な意味の原理主義者と比べ、無信仰の人を恐れ、羨む在り方にあるという意味であったと思う。

例えば後期資本主義の「ブルジョア社会」があらゆる個人を平等化しつつ、階級秩序を有耶無耶にしたように、内部的な分裂を隠すために、<他者>に対する否定を基盤とする思想は、それそのものにとある症候が隠れている。

それは、その成り立ちからして何かの否定を担保にしている以上、当たり前ではあるが担保されているものなしでは成り立たないというアイデンティティであるからだ。

われわれとは、あるがままのわれわれ自身であるし、であるがゆえに人間である。そのため、他の人間がどのように振る舞うかは気にしない」というのが民族的アイデンティティであるように、本来の(宗教的)原理主義者が他宗教および無信仰の人間を意に介さないように、アイデンティティとは本来的な意味では他人に阻害されるものではない。

(後期資本主義のブルジョワ社会的な帰結については、概念としての階級秩序が有耶無耶になったとしても経済状況における階級の格差はなくならないし、次から次へと自由選択を迫られる「個人事業主/自己起業家」的なポスト・フォーディズムの社会下であれば、フレキシビリティの名の下に自己がスポイルされる点で、階級闘争のフェイズが変化するだけである。解決にはならない)

ではアイデンティティの正しい在り方とは何だろうか?

ガーディアン誌によると、それは他者-自己の軋轢を無くす(文化的・慣習的画一化を図ること)ことではなく、つまり、「自分自身を尊重してほしい」と願うのではなく「”他人とは違う自分自身”が容認される」ということであるという。

①シニフィアンに対してシニフィエがあるように、ロラン・バルトもコノテーションに対してデノテーションという考え方を提唱しましたが、反転可能な欲望の構造である前者に対して、コノ=デノテーションという考え方はどちらかというと前後のイメージを包括するメタ認知に近いところがあると思います。

②つまり、例えば「桜」という文字を見ると例のピンク色の花の咲く木のイメージが湧くと思うのですが、「桜」という言葉には同時に、「卒業」や「死体」といった他のイメージや言葉をしばしば呼び起こしますけれど、「桜」に対してピンク色の花の咲く木という意味を表出させるのがデノテーション、「死体」「宴会」など「桜」そのものから少し逸脱した意味を表出させるのがコノテーションの作用となります。

③簡単に言うならばコノテーションとは任意のモチーフに対して主体の見出す恣意的な意味、とも表することができるかもしれません。

同じ一つの記号から複数の意味を切り出すと言う意味では、人間同士のコミュニケーションはだから、コノテーションに近い意味作用を持つのかも知しれない。

鏡像段階以降の自意識を持つ人間は、ラカンによると、他者による承認や共感を求めるようになる。その過程でパラドックスから孤独を経験し、パラドックスからアイデンティティを発見する。

結局のところ、主体(=私)はそれ自身ではアイデンティティを創出することができないが、他者のリフレクションたる「アイデンティティ」はバイアス足り得る。孤独を知りながら、人間はコミュニティを作り、感情で違和感を補完する・・人間の営みは矛盾に満ちている。

我々はある意味では任意の事象の「出会い」に対し、いつも「それ」を掴み損ねている。それは想像力の砂塵の中で少しずつ蓄積される、我々の孤独の部分でもある。

実によく出来た孤独の構造である。

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