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モダンでありノスタルジックであるもの、局所的であり普遍的であるもの(The Spy From Cairo『Arabadub』レビュー)

はたして、ポピュリズムの向かう先はどこだろうか?貧困を無くし、教育や学問を子供に与え、インフラを整備し、衛生面も整え、快適な生活を送れること・・健康的で近代的な営みは、人間に安息と文化的繁栄をもたらす。

・・それは本当にそうだろうか?

例えば、NoFXというバンドの楽曲に「Kill All The White Man」というものがある。そこで歌われているのはこうだ。

”白人は自分のことを「文明化された人間」 だという・・何故なら彼らは文化を支配する方法を知っているから/ 白人が俺の村を略奪しにくる/ 彼らは俺たちが大切にしていたものを、人を、故郷をレイプしにやってくるー”

グローバリゼーションの名のもとで行われているのは、文化の画一化、もっといえば西洋文化による土着文化の侵略であると危惧するのは、何もスラヴォイ・ジジェクやポール・K・ファイヤアーベントといった学者だけではない。

サブライム・フリークエンシーズのアラン・ビショップ、アナログ・アフリカのSamy Ben Redjebといったレーベルオーナーがタイやアフリカに自ら赴き、現地のラジオから楽曲を直接発掘したがるのも同じような理由からだろう。

新しい形の物質を取り込むということは、「一つの世界全体が消失し、全く違った種類の現象形がそれに置き換わることである」としたファイヤアーベントを引用するまでもなく、

マクドナルド、コカ・コーラ、スターバックス、あるいはファストファッションのチェーン店に街のランドスケープが侵害されるなんていうことは、今時の日本でも珍しくない。

そうしたパラダイムの転換によって、その土地が元々持っている「ルーツ」が喪失されてしまうことを、彼らは恐れているのだ。

ポリスとか最新のR&B、アウトキャストみたいな音楽はいつでもラジオでかかってる。誰かがそうしようとやっきにならなくても、自分たちで勝手に普及させてくれるまでになってる」ーアラン・ビショップは語る。

The Spy From Cairoは、イタリア出身のアーティスト/DJであるMoreno Visiniの別名義でのプロジェクトである。彼は東欧/クルド系のジプシーである母親をルーツに持ち、8歳でギターを始める。

彼は同様にZebという名義でも活動し、こちらではダブやレゲエのメロディにウードや彼の影響を受けたスペインのフラメンコ調のギターを合わせた楽曲を作成している。

使用楽器は似ているが、The Spy From Cairoと比べバックに鳴っているビートが打ち込みやクラップを多用した軽やかなものが多い。

エキゾチシズムは感じるものの、どちらかというとクラブ寄りの、ダウンテンポのようにレイドバックした雰囲気といったところだろうか。

さて、The Spy From Cairoの『Arabadub』は、Wonderwheel Recordingsから2012年にリリースされたアルバムだ。

ダブのようだがスカのようでもある特定の拍子が強調されたリズム、ウードのストリングスやサズといった弦楽器のアンサンブルをダラブッカの軽やかなビートが転がす「Alladin Dub」。

Desert Tears」の4つ打ちのビートとストリングスに入るネイ(フルートのような楽器)はどこか尺八のようにも聴こえるし、「Zebda」に見られるチフテリのストリングスはどこか三味線のようで、日本の和楽器に近しいメロディに親近感がわくかもしれない。

また、ウードのストリングスで始まる「Taksim Square」の中盤で入ってくるアコーディオンのメランコリックなメロディと、それらをボトムで纏める軽快なベースラインは魅力的で、オーケストラ的な演奏とスカのビートが作り出す雄大なサウンドスケープが心地よい。

なお、The Spy From Cairoの音楽は全て自身の手で収録されている

ベースやギターはもちろん、楽曲に出てくるウード(Oud)、サズ(Saz)、チフテリ(Ciftelli)といった民族楽器はアーティスト自身が演奏している。また、プロデュース等も全て自身で行なっているという。

同じような楽曲アプローチといってまず筆者はムスリムガーゼを思い出した。

ただし、ブレイクビーツやノイズ・インダストリアル、ドローンといったいわゆるメロディを否定する音楽がバックグラウンドにあるムスリムガーゼに対し、

ダブやスカ、レゲエで包括したThe Spy From Cairoの楽曲はもう少しビートが明確で、ムスリムガーゼのように攻撃的なアティチュードが見えない分、耳触りは良く感じる。

どちらかというと、Zeb名義でリミックスもしているトルコのミュージシャン、Omer Frauk Tekbilekのように、トルコの伝統的な音楽にアンビエント的なエッセンスを少し垂らしたようなアプローチの方が近い。

15歳で親元を離れたMoreno Visiniは、単身イギリスへ移り住む。そこでひどく疎外感を受け、西ロンドンのインド人によるコミュニティに迎合されるようになったという。

その後、ファンク、レゲエ、ワールド・ミュージックなど様々なスタイルのバンドを経験するうち、電子音楽に傾倒するようになったようだ。現在の彼の音楽的ルーツはだから、この辺りで形成されたのかもしれない。

The Spy From Cairoの音楽は、彼自身のルーツであるトルコ音楽がモチーフになっていることは明確だが、これは単なるルーツへの回帰ではない。

そうではなく、同じくグローバリゼーションの名の下にクレオールされて生まれたレゲエやダブを巻き込んで、ジジェク的に言うならば新しいアイデンティティを創出していると言えるのではないだろうか。

ポピュリズムの加速により失われていく「ルーツ」について、我々は正しい一つの回答を持たない。

ポピュリズムの単純な否定はまた別の画一化されたルールの制定に過ぎず、大切なことは、何が起こっているかを人々に伝えることであり、「局部的な熱狂を社会全体の根幹にすること」ではないからだ。

アラン・ビショップがルークトゥンのコンピレーションを出したように、あるいはクリスチャン・ボルタンスキーの言うように「私がそこにいたということ、またそのことを私の次の世代も理解できる状態」、それを文化的所作とするならば、

ワールドミュージック、あるいは民族楽器を現代音楽でフックアップする所作も、文化に対する人々の一つの回答であり、選択なのではないだろうか。

Kill All The White Man」とグローバリゼーションを否定するのも悪くないが、普遍性は既存のイデオロギーを包括するコンテクストを含むからして、西欧的文化をクレオールすること、その所作の方がもっとクレヴァーだ。

モダンでありノスタルジックであり、失われているようで新しく得てもいる・・不思議な感覚だ。だが、それが彼の魅力なのだろう。

【おまけ】

ここで出てきた民族音楽について、自分でもちゃんと聞き分けができているか不安なところではありますが、主に出てくる楽器についてのメモをここに記載します。

ウード(Oud)

東欧〜モロッコあたりのアラブ音楽の文化圏や、トルコ音楽で使われる弦楽器。演奏にはダラブッカなどの打楽器による伴奏がつきます。

チフテリ(Cifteli)

東ヨーロッパはアルバニア共和国の民俗舞踊で使われる弦楽器。少し高い音色で三味線のように聴こえることがある・・気がします。

サズ(Saz)

主にアゼルバイジャンやトルコで使われる撥弦楽器。ウードに近い音色ですが琴のようにトーンが少し高め?

ダルブッカ(Darbuka)

アラビア音楽の伴奏によく使われている軽快な太鼓です。


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