喪失と情動と死について(オブセッシブなカテゴリをゆるくモリッシーと巡る)

成長の過程や文化の発展の程度に於いて語彙力の差異はあれど、思考する内容について差異はない、とファイヤアーベントは考古学者を批判する。文明が存在していた「石器時代の精神的能力」が現代の人間より劣る、未熟なものである証拠はないし、人間そのものは変わらず同じ営みを続けているからだ。

文明の発達により人間の思考が抽象的になればなるほど、それは「自然」なるものから乖離する・・つまり、ラカンの言う所の<現実界>の事物を表す手段たる<象徴界>的所作である「言語」が、「実際の」事物のディティールを取りこぼすように、経年による思考の抽象化と過去の文明を照合した際に、学者は相手に対して無知であるが故に、「未開な種族」と称しているに過ぎないということだ。

私自身は、概ねこの考えには賛成だ。

というのも、少なくとも私の思考そのものは、もちろん年齢を重ねることにより語彙力や表現力が発達し、様々なレトリックやアイロニーを覚えたものの、凡そ考えること、思想傾向は幼少期から変わっていないからである。

01.Well I Wonder

”考えると死んでしまいそうになる/ 息を切らしながら、死にかけてはいるけれど、僕はまだ生きている/ どうか僕を忘れないでほしい”

モリッシーが死について恐怖したのは自身が8歳の頃だったとどこかのインタヴューで読んだことがあるが、私が初めて「死」について恐怖したのは4歳の頃だった。それよりも以前から生き物が死ぬことは知っていたが、はっきりと自覚したのはその時分だったと記憶している・・少なくとも、未就学児の頃だった。

こんな風に私は今後自分の感覚を発達させ、学び、楽しい思い出や美しいものをきっと好きになるのに、それが失われてしまうのだ」という恐怖を感じた瞬間は、今もよく覚えている。「人間はどうして生きているのか、意識があるのに、なぜ死ぬ(=失われてしまう)運命なのか」と、この世界の不合理を突きつけられた気がした。

意識をもった存在が、その意識を失ってしまい、二度と思考することができなくなる、なのに何故我々は意識を持つのだろうか?・・失ってしまうのなら、最初からそんなものはなかった方が合理的なのではないか?と私自身はいたく混乱した。

仏教、キリスト教、ユダヤ教、あるいは空飛ぶスパゲッティモンスター教、見えざるピンクのユニコーン教など、私自身は宗教についてとても深い興味があるものの、残念ながらどれにもコミットすることができなかった。

そのため、既存の宗教観に基づく死生観を私は否定するつもりもないし、また、彼らに諭されてもリアリティをもったものとして感じることができないので、予めご了承いただきたい。

自分が死んだ時について考えるのはなにも人間だけではなく、手話を覚えたゴリラのココの話も有名だろう。彼女は死を理解していた。動物園を歩き回り、観察し、そして死を学んだという。

骸骨を見てこれは生き物ではないと察し、「死んだ動物はどこへいくのか?」という質問に対しては、「A comfortable hole.」と答えている。

私自身もゴリラと同じように、動物のドキュメンタリーから生きることと死ぬことを学んだ。生きることは他の何者かを殺すことだということも理解したし、罪悪感という感情も覚えた。

感じること、学ぶこと、考えることそのものは、語彙力の差異はあれど、そこに優劣はない。「何かが死んだ後に意識はどうなるのだろうか?」ということについては、多くの人間が考えることだろう。ゴリラも考えていることから、人間以外の生き物もそのように思考するかもしれない。

自分自身の死を理解してから、私は感覚を持つことが恐くなった。もっといえば、人と関わること、何か好きなものをもつことを極端に恐れるようになった・・前述したように、失ってしまうことについての恐怖からだ。

私自身の人生はその時から、自分の人生は「LIMBO」であると自覚した。リンボーとは、平たく言えば天国でも地獄でもない場所のことを指すが、私にとっては天国でも地獄でもないが現世でもない、そんな状況にぴったり当てはまる言葉だと感じた。

感情を否定する人間が立つ瀬、という解釈が正しいだろうか。できることなら、失うものを最小限にするために、マシーンのように生きたいと私は考えていた。

02.How Soon Is Now?

”僕は人間で、愛されたいと願っている・・他の誰しもが同じように、そう願っている。”

私自身、死の恐怖に取り憑かれた・・恐怖とは欲望の反転であるからして、死を恐怖するということはつまり、死そのものに魅了されていることの証左でもある。「死」とは、嫌悪すべき、あるいは畏怖すべき存在であり、私自身はそれを拒絶せざるを得ない・・であるが故に魅力的に感じる、というパラドックスだ。

私は鴨居玲の瞳に、あるいはカート・コバーンの瞳に吸い寄せられるように惹きつけられていたし、それを必死に否定しようとしていた。この気持ちに言葉をつけるとすればそれは「メメント・モリ」よりも「ヴァニタス」のメランコリックな響きが近いのだろう。

人間とは不思議なもので、自己矛盾に陥りながらも、本質的には「理解されたい」という気持ちを持っているものである、というのがラカンの鏡像段階以降の人格形成である。

つまり、自分自身と「他者」との違いを認識した段階以降から、人間は言語によるコミュニケーションによって他者との交流をはかる。だが、言葉は同時に<現実界>の事物を切り離す性質を持つからして、コミュニケーションをはかろうとすればするほど、言葉は厳密性に欠けることに気がつく。例えば、同じ「赤い」という色が想起する人間によって全く違うように。

それでも人間は他者に共感されたいと思い、承認されたいと考える不合理さを有している。

スミスの「How Soon Is Now?」では、こんなラインが続くー「君を本当に愛してくれる人はクラブにいるかもしれない/ そこでも君は一人ぼっちで、家に帰って、泣いて、そして・・死にたくなる」これも、鏡像段階以降の人間関係を拗らせた人間の典型だろう。

人間が、あるいは任意の生き物が感情を持つ理由には諸説あると思うが、記憶や情動についてを司る器官は扁桃体である。

扁桃体を破壊された生き物は群れを作れなかったり、恐怖の条件付けが上手くできず危険な行為を犯すという点を省みると、喜びや恐怖といった感情と自身の経験を紐付け、生物の生存率を上げること・・それは、感情の面では不合理かもしれないが、生存というシステムから俯瞰すると理にかなっているのかもしれない。

実際、アリストテレスは「感情には精神の緊張をほぐし、明確な思考を保つためのカタルシスがある」としている。また、ファイヤアーベントも自著『知についての三つの対話』にてこのように述べている。

”もしわれわれが、口から放たれる音の持つリズムに何らかの注意を払わないでいられるとしたら、もしわれわれが文化的に規定された特別の仕草をないものとすることができるとしたら、そこにあるのはもはや人間ではない”

ラカンによると、鏡像段階以降の人間は、このように抱える不合理を敢えて無視することを経験で学ぶ。

情動はまやかしだろうか?

少なくとも言語においては厳密性に欠けるものではある、だが、<現実界>の主体が感じるものは、主体そのものにおいては「現実」である。それを「他者」が(本質的な意味での厳密さをもって)理解できないだけだ。

03.Still ill

”身体が精神を支配するのか、精神が肉体を支配するのか?僕はわからない。”

私自身は死ぬことがとても怖い。「全てを失う気配やおそれにとらわれている時のわれわれは、実のところ(まだ)存在していないものを人質にとられている」のだとしたら、それは確かにそうだ。

死について、それがどのような状態であるか明確な回答がないのにも関わらずそれを恐れている。それはまさに、失うことについての恐怖であり、断絶に対する拒否反応だろう。

だが私は、あるいは人間は何かを所有することをやめられない。感情や、愛情、あるいは蒐集であったり、何も持たないまま我々は生きられない。人間を人間たらしめるものは感情である・・

否定したいが否定し難い、肯定し難いが肯定せざるを得ない、人間の死も、感情も、愛情も、<象徴界>と<現実界>の間で揺らぎながら存在し、その波打ち際に私自身はポツリと立っている。

「I am human and I need to be loved」は確かにそうだ、そんな不可能性を抱えながら、天国でも地獄でも、ましてや現世でもない「LIMBO」において私の生は継続し、また緩やかに減退していく、考えたくもないことであるが、私にとって死とはそのようなものに感じられる。

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