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"美しさ"とは納得・説得・最大公約数である…と、ド素人なりに考えた話

代打で広報担当兼マスコットキャラクター:ルーンが書いております。
(ルーンちゃんは「インハウスデザイナーって何のデザインをしているんですか?」と聞いてしまうくらいにデザインについてはド素人です。)

先日の記事(スライドデザイン)を書いていた弊社CEOはまごうことなきデザイナーですが、私はデザインを外から眺めていたド素人です。
デザイナーの永遠の課題とも言える「”美しさ”とは何か」について、デザイン事務所にいるデザインド素人が考えてみたいと思います。

美しさを考えるにあたって、以下3つの観点から考えたいと思います。
 ①美しさは"納得"である?
 ②美しさは"説得"である?
 ③美しさは"最大公約数"である?

①美しさは"納得"である?

まず思い浮かぶのは、人それぞれが美しいと思う基準を持っているというものです。
自分にとっては美しく見えるカタチ(例えば、リンゴのシルエット)が、誰かにとっては美しく見えない。このようなことはいつだって起こり得ます。
しかし、「美しさの基準は個人によって異なる」で終わらせてしまうと、デザイナーもヘチマもありません。
翻せば、多くの人が納得する美しさを追求するのがデザイナーの命題のひとつなのかもしれません。
だからこそ、黄金比であるとか、万人を納得させられる方程式を今も昔も探しているのだと思います。

②美しさは"説得"である?

私のようにデザインに明るくない人間は説得されやすいと思います。
ここでいう説得とは、直感的な美しさよりも、説明的な肉付けされた美しさのことです。
より具体的に言うと、「ブランドが出している商品だからきっと美しい」と説得されることです。
例にあげてしまって申し訳ないのですが、一時期、ティファニーのペーパークリップが話題になっていました。「クリップが2.5万円・・・?100円ショップなら100個100円くらいで売っているのに?でも?ティファニー様が販売されているのであれば?さぞかし計算された美しさで良いものに違いない!!買う!!!」

(名誉のために言っておくと、私はティファニーが好きです。今も右手にはティファニーのリングをつけているくらいです。)
上述の例は極端な例で、ブランドという歴史と技術で裏打ちされた結果、ブランド名を冠すること自体が価値を持っている好例です。
しかし、もう少し身近な悪例を考えてみると、例えば、野暮なデザインや失敗したデザインについて講釈を垂れることで誤魔化すことだって可能だと思います。
美しさを判断する確固たる基準を持ち合わせていない場合、簡単に説得されてしまいます。

説得することで美しさを生み出すことができるのか?答えは皮肉にもイエスであると思います。しかも、人によっては説得されることと、自分が納得することはニアリーイコールであるでしょう。
それでも、美しさというのはどこか別の場所に、サンクチュアリみたいなところに、静かに佇んでいるはずだと思うのは、デザインから遠い人間の幻想なのでしょうか。

③美しさは"最大公約数"である?

ここまで、「個人レベルで感じる美しさ」や「提供する側によって肉付けされた美しさ」という視点から考えてきました。
ここで少し、デザイン事務所にいる人間という立場から考える美しさについて検討したいと思います。

デザイン事務所である以上、顧客からの依頼があって初めて仕事が成り立ちます。
その仕事には相手の要望があり、納期があり、予算があります。そしてその後ろにデザイナー(デザイン事務所)の考える美しさがあります。
複数の案をご提案した結果、自分が一等美しいと思っている案(デザイン)が選ばれないことはままあります。だからといって、自分が美しいもの1つだけを提案するというのが、たった一つの冴えた方法とは言えません
相手とのコミュニケーションや回数を重ねることでできあがる、より美しいデザインというのは確かに存在します。
さて、ここで言う「より美しいデザイン」というのは何でしょうか。
相手が納得すること?こちらのデザインの良さについて相手を説得すること?
私はここで言う「より美しいデザイン」とは、最大公約数だと思います。仕事(デザイン)を依頼する側と請ける側、そしてその仕事(デザイン)を見ることになる人々。ひとつの仕事(デザイン)に関わる人々の中での最大公約数を探すことが、仕事をしていく中での美しさであると思います。


Balloon Inc.が追求する美しさとは何か

弊社ホームページに以下の文章が記載されています。
私には、正しさが結果的に美しさと繋がっているという意味に思えます。裏を返せば、美しくないものは不正解であるとも言えます。

ここで少し、フィギュアスケートについて言及したいと思います。
フィギュアスケートは芸術面を競い合いながらも、4回転…5回転…と技術面の進化も求められる競技となり、人気とともに複雑性も増しています。
見る側が、フィギュアスケートの芸術面と技術面をどのように鑑賞すればいいのかと悩むのであれば、きっと選手はそれ以上に悩んでいるはずです。
この点について、羽生選手のコメントがあります。

 芸術、バレエとか、例えばミュージカルとかもそうですけれども、芸術というのは明らかに正しい技術、徹底された基礎によって裏付けされた表現力、芸術であって、それが足りないと芸術にはならないと僕は思っています。だからこそ、僕はジャンプをやる際、ステップをやる際、スピンをやる際、全てにおいて正しい技術を使い、そしてそれを芸術として見せることが一番大切なことだと思っているので、もちろん選手によってはすごくジャンプが大事っていう人もフィギュアスケーターの中ではたくさんいるし、それで勝ってきている人もいます。ただ、僕は難しいジャンプを跳びつつ、それがやっぱり、それがあるからこそ芸術が成り立っているんだなというようなジャンプをこれからもしていきたいなというふうに思います。
https://thepage.jp/detail/20180227-00000004-wordleaf?page=3

「美しさ=正しさ」とは異なる視点からのコメントですが、ただガムシャラに美しさを追求するのではなく、技術向上に裏打ちされた美しさを追求したいのだという心情が読み取れます。

冒頭から、「”美しさ”とは何か」について検討してきました。「美しさの基準は個人によって異なる」で終わらせることも可能ですが、デザインを仕事としている以上、「”美しさ”とは何か」について向き合う必要があります
人の数だけ答えはあるけれど、デザインを仕事にする人間にとって、「”美しさ”とは何か」を定義することは、ある種の企業理念を定義することにもつながるのかもしれません。

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