2023/2/1にあった面白いと思ったこと 帰ってきたグラウンド整備で花束が落ちた

昨日の続きっぽいので、昨日のものも確認してほしい。
今日は朝6:00頃に起きて、日記を書いて部屋についている露天風呂に浸かる。その後、昨日の残りを朝食にして徹底的に掃除をして10時チェックアウトの出発。
日光東照宮やその辺をうろつき、17時ころから電車に乗り、20時前くらいに帰ってきた。電車であまり寝られない質の私は、帰宅すると眠たすぎて24時まで寝てしまった。まだカレーを食べていなかったのでカレーのインスタント麺があったのでこれで1カレーとカウントした。今は2/2の漫才大行進のネタができていないので作っている。

私はとまった宿を掃除してからチェックアウトしたいタイプの人間だ。そんなタイプの人間がいるのだろうか。わからないが、少なくとも私はそうだ。今回の宿はかなりきれいだったので、なおのこと熱が入る。備え付けの食器類を洗う。コーヒーメーカーもコーヒーかすが残らないように洗う。加湿器の残った水を捨てる。布団をたたむ。タオルはカゴにひとまとめにする。水回りは使用済みタオルで水気を拭いてやる。ここまでやっていると10時のチェックアウトはギリギリだった。
ここまでしてなぜ掃除をするのか。宿の使い方は人によっては汚しに汚して出るという人もいると伝え聞く。私はやはり、部活で徹底的に言われてきた、使う前よりもきれいにの精神が身に染みてしまっており自分を苦しめている。
野球部なので当然、グラウンド整備は重要な仕事だ。自分で使ったものなので当然だ。中・高野球部はグラウンド整備は基本は1年生がやる。ただ、なんとなく気分が悪いので私は3年までやっていた。小学生からの野球歴を10年以上としたらその10年はグラウンド整備歴でもある。阪神園芸社員ばりのグラウンド整備人生だ。いまでも草野球で整備をやるのだがグラウンドのスタッフの方がうちでやっておくから出ていいとおっしゃることがあるのだが、これが気持ちが悪いことが多い。
内野はホームから外野の手前までは中腰でトンボ掛けをやらないといけないという気持ちがある。スタッフの方はベースの周りだけだったり、場所によっては車にでっかいブラシを付けたようなものでグラウンドをぐるぐる丸という荒業をやってのけることもある。

それでは違うのだ。見た目はきれいなグラウンドに戻るが、近づいてみるとスパイクの後でぼこぼこと穴が開いている。これではイレギュラーバウンドでけがをしてしまう人が出るかもしれない。試合のここぞという場面で、エラーを誘発してしまうかもしれない。そういったことで試合の結果がかわるのは野球人としてはなんとも言えない気持ちになる。エラーや整備不良もふくめて野球ではあるが、防げるミスは防いだうえで挑むのが野球だ。
また、ケガの件については高校の時、チームメイトが普通のゴロを処理しようと正面に入ったとき目の前で大きくイレギュラーバウンドした球が前歯にあたりがっつり流血と歯が抜けるという痛々しい事故が目の前で起きた。あのような思いをする人が減るのならばと整備には熱が入る。

野球の話が長くなった。宿を掃除して出る件だ。この件についてはいろいろな感情がある。この中には偽善のような気持ちも0ではない。やはり部屋がきれいに使われていれば掃除の方も喜んでくれるのではないか、もしかしたら何か感謝の言葉の一言でもあるかもしれない。そのいやらしさも多少は持っている。

あと、怖がらせたいという気持ちもある。もしあなたが宿の掃除を仕事としている人だったらどんな気持ちで働いているだろうか。部屋のドアをあけるときは毎回、どんな汚れがあるかしら。汚かったらやだなあ。と思うはずだ。そしてその部屋の多くは、ぐちゃぐちゃにゴミが広がっていたり小物家電の位置が変わっていたりと少しイラっとすることがたくさん積み重なった部屋であろう。しかし、どうだろうとんでもなく部屋がきれいだったら。怖いだろう。泊った人はこの部屋で何をしていたのだろう?もしかして間違えて未使用の部屋に入ってしまったか?でもトイレットペーパーが減っている。暖房の残った暖かさがある。確かに泊まったのだろう。
ここまできれいだと、逆に何か犯罪の証拠を隠すためにきれいにしたのではないかと疑ってしまうことだろう。こういった経験を掃除の方に与えたいという悪い感情もある。

そしてなんといっても誰のためでもない自分のためにしている面が一番大きい。お金を払っているとはいえ、宿は借り物だ。借りたものを汚し、壊して返してしまうのは人としての道に反しているのではないかと思う。そして、もし壊したりしたまま出てしまうと、そのことがずっと頭に残って自分を責め立てる。どんな尊大なことを言ったところで自分は部屋を汚して返すような人間だ。と自分の発言に自身が持てなくなってしまうことが怖い。
多少間違ったことを言ったとしても、自分はちゃんと掃除をしている人間なのだという自信が自分の精神を怖さない砦になってくれる。
日々の良いと思うことを偽善も受け止めながら取り組むことで、失敗しても自分を完全に否定しないでいることができる。掃除は人のためではない。究極の自己中心としての掃除をやっているのだ。

ここまで話をしたが、今日の面白いと思ったことはまったく関係ない。
日光市内のスーパーに行くと駐車場に喫煙所があった。たばこを吸ってぼうっとしていると老齢の女性が二人店から出てきた。切り花の束をいくつか持っている。一人の女性が束をひとつ落とす。それを拾おうとかがんだ時にまた一つの束が落ちるというのを何度か繰り返していた。
その時二人はとても大笑いしていた。少女のように純粋で大きな声で笑っていた。これを見た時に私は漫才のなんとむなしいことかと思った。どれだけ頑張ったとしても、切り花の束が繰り返し手からこぼれるということに我々は勝てないのだ。たとえテレビで引っ張りだこの漫才師としてもあそこまで、この二人の老女を笑わせることはできないだろう。
漫才というのは虚業だ。面白くないことも面白いことが起きているかのように見せるテクニックバトルの面があるのではないか。

こういった自戒の念を抱くことができたことが、今回の旅で得られた最も大きなものだったのではないかと思う。

今日面白いと思ったことは「とにかく自罰的な自分に気づいたこと」だ。
まだ、2日の漫才できてないよーまずいよー

こんなつらい人生。ここに空き缶を置いておきます。