2023/6/23 沖縄のことを思い出した

今朝はというよか、今昼は12時過ぎに起きた。いえい✌

昨晩は2時前にはふとんに入ったのだが、なんだか眠られず家の中をウロウロしたり横になったりしていると4時を過ぎた。Oh!精神!

特に予定はない。ウーバーを残り37件やらないといけない。ウーバーをやるのみだ。
起きてから17時ころまで信じられないくらいだらついた。こんなにだらついてはよくないなと思いながらも、なんだか何もやる気にならず座ったり横になったりしていた。
ひとまず、17時になったのでウーバーにでかける。いくらフライデイないととはいえ、コロナ禍についての行動制限もなくなり注文は少なめである。ちょびちょびとこなしながら走り回った。

ちょうど町屋のあたりを走っていると、カフェ若茶があった。なにかやっているなとさ~っと前を通ると、とんとん拍子のお二人が漫才をやっているっぽかった。がんばっているな~。僕もウーバーをがんばるぞと思った。

今日のウーバーは特に不満もなくただただご飯を運んだ。いや、細かく言えばいっぱいあるけどもいったん今日は水に流すことにした。

ウーバー終わりにスーパーで買い物をして帰宅した。今日はカレーうどんと冷ややっこをいただいた。
うどんを食べながらニュースを見る。今日は「慰霊の日」であることを教えてもらった。完全に忘れてしまっていた。しかし、こうしてメディアが報じてくれることで私の心は沖縄へと大きな跳躍をする。

さんざん書いているがあらためて言うと、私は琉球大学を卒業した。
私は2013年4月~2017年10月ころの間、沖縄に住んでいた。半年留年していたので中途半端な時期までいた。
当時の住まいは中城村南上原というところだ。琉球大学の東口を出て30秒くらいのところのアパートである。
ワンルーム、ユニットバス(シャワーのみ)、ベランダあり、無料インターネット、無料駐車場で32,000円という今思えば激安物件で私はときに楽しく、ときに鬱々とすごしていた。今とかわらんやないか。

今日、慰霊の日を迎えた沖縄を各番組で取材し報道していた。見たことのある景色がいくつも画面に出てくる。
平和公園や国際通りなんかは平時のテレビでもよく見る景色だ。しかし、今日は嘉数高台の景色も映ったし、なかぐすくサンエー裏の高台からの景色も映っていた。ああ、懐かしい。
サンエー裏の高台は当時の私のアパートから徒歩10分くらいのところにあった。よく行った。特に留年した半年の間は同級生もほとんど卒業してしまったので一人の時間も多く、散歩をしていた場所だ。

本当に誰にも伝わらない、私の脳内の映像の話をする。留年した私はとにかく深夜のウォーキングにはまっていた。23時ころになるとラジオを聞きながら歩き始める。このサンエー裏の高台も歩く。ここからは夜になると眼下に電照菊を栽培しているところが見える。遠くには沖縄電力の発電所桟橋が長く太平洋に伸びているのが見える。いま思い出せばそれはそれはきれいな景色であった。
中城村なんか観光客も来ないので静かで心落ち着く場所だ。
そのあとサンエーの横の長く急な下り坂を下って津覇という地域に下っていく。そこから歩きまくって、3時ころに帰宅することもあった。途中で24時間営業のスーパーマーケット、ユニオンで夕食を買って帰る。
私はいつも決まって、豆腐とカップ焼きそば、千切りキャベツ、白身魚のフライ、オリオンビール(第3のやつ)を買って帰って食べていた。
この時間が最高に気持ちよかった。疲労感とビールだ。

このようなだらついた大学生活の話はまた皆さんと会った時に直接やりましょう。記憶は遠ざかれば遠ざかるほど美しくよみがえってしまう。今はそんなときじゃあないな。

私は琉球大学教育学部にいた。なかでも社会系の学科コースだった。これもまたややこしいのだが、当時の琉球大学教育学部は教員養成コースと生涯教育コースがあった。
教員養成コースは先生になることが目的のコースと言えるだろう。各科目のコースがあり、授業研究などを行っていく。一方、私がいたのは生涯教育コースである。生涯教育とは言葉の通り生涯にわたって学びの機会と場所をつくる人材を育てるという何とも高尚なコースである。
大人になった今だからこそ思うのは生涯教育コースでよかったなということだ。教員になることが大学から命じられていないので自由に自分の興味のあることを究めることができた。

ちなみにこの生涯教育コースは世知辛いもので、教員輩出数があまりに少ないことで解体された。大学教育ってそういうもんなのか?と私は一抹のいらだちを持っている。教育なんか、数字で出せるもんじゃあない。それは私がいま貧乏でお笑いをやっているから言えることだろうか。
一般の方から見たら生涯教育コースなんかにいってしまったから、ちゃらんぽらんな芸人なんて仕事を選んでしまったのだろうと憐れんでいるのだろうか。

まあいいや。今の自分が自分の中ではすべて最善な選択肢を選んでここまで来たと信じるようにしている。もし私がどこかで野垂れ死んでも、私という生命の、最高得点を出した結果の野垂れ死にであるだろうと言える。

話が逸れた。
沖縄で教員になるための勉強をするということは平和教育をする立場になるということから逃れることはできない。戦中戦後の沖縄についての講義はいくつもいくつも受けた。また、社会系ということもあり人文・自然地理学的に見た沖縄戦争という角度も広義では学べたりした。

正直な話をすれば、沖縄での地上戦について日本の中ではよく知っている部類だろうが、沖縄ではぜんぜんしらないレベルの人間である。なのでなにも知ったかぶりをするつもりもない。私は何も知らない。
しかし学生自分の私は知らないなりに、この岬に立ったとき、このガマに身を隠したとき、当時の沖縄の人々は何を思ったのだろうかと想像して思いを馳せた。その想像は映像として記憶に残り、今の私に平和を願わせるのだ。

私は広島の出身だ。広島であれば原爆による破壊を中心として、戦争について学ぶことになる。小・中・高校と毎年のように広島の平和公園に行き、資料館に行く。私は沖縄に行って、沖縄地上戦について学ぶことで私の戦争についての知識や感情には大きな偏りがあったということに気付いた。
ここは教育の課題であると思う。いかんせん各地域で行われる平和教育には各地域の情報に偏りすぎる癖があるようだ。
これは教材となる資料の入手のしやすさなども含めて仕方がないことであるとは思う。しかし、人の痛みを時間を超えて知ることで未来の平和を作っていく平和教育が「身内」の話題に終始してしまっている問題があるのではないだろうか。

広島出身の私が沖縄のことをあまりに知らな過ぎたこともあるが、沖縄で原爆にまつわる話をしてもまったく知らないのである。琉球大学に通う沖縄の子供たちはいわばエリートである。ちゃんと学校の授業を受けて地元の国立大学に通う、学ぶ姿勢に問題がない子供でも知らないのである。つまりは先ほど述べたような課題が存在するのではないか。

私の恥ずかしい話をすれば、個人の旅行で長崎の平和公園・資料館には行ったが、まったく知らないことだらけであった。長崎もまた原爆被害を受けた都市であるのに私には知識がまったくなかった。
そして、東京のことで言っても東京大空襲のことはまったくといっていいほど知識がない。

もちろん、これは私の感覚レベルでの話であって、たまたまが重なってそう感じただけかもしれない。
これをもし卒業論文のテーマにしたいだなんて思い立った学生諸子は、いかにデータをとってくるのか思案してほしい。学生の論文であれば、いかに客観的なデータをとってくるのか、これさえ乗り越えれば卒業はできる。
私の場合はデータばかりとってきて、発想が弱かった。あ~恥ずかしい。

いろいろと書いてみたが、これ以上書いたところで平和について興味がある人もそんなにいなかろうと、ここらあたりで話を終えることにする。
とりあえず頭に浮かんできたことをたくさん書き連ねた。

こうやって考えるきっかけをいただいたのも、慰霊の日が現代でも報道され続けていることによるものである。

今日のウーバーは9件こなした。
現在22/50、あと28件を土日でやらんといかん。

今日面白いと思ったことは「沖縄で過ごした日々こそ日記に残しておけばよかったものだと思う。思うが、後悔はしていないということにしておく。」


こんなつらい人生。ここに空き缶を置いておきます。