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【エッセイ】気がつけばゴンドラ

知ってるかい?
おれが今、目の前で見ているものを? そう、一枚の鉄板さ。忍者のマキビシを思わせる形の、滑り止め用の突起がついた、専門的には縞鋼板って呼ばれるやつだ。

一般的にはスキー場のゴンドラの床なんかに、よく使われている。おれたちがスキー靴を履いてガンダムになっているとき(みんなやるだろ?)、床がつるつるだと滑って危なく、落ち着いてガンダムになれないからな。

そう、おれは今ゴンドラの中にいる。たったひとりで。

ひとつ白いため息をつく。そうすれば時間が少しだけ早く流れてくれそうな気がしたが、時間ってやつは今日も頑迷なまでに平等だ。一秒が急に半秒に変わることは決してない。

四角いゴンドラをぐるりと囲んで張られた、大きな窓の外では、残雪をかぶった美しい稜線が幾重にも連なって、壮麗な山岳景色を生み出している──はずだ。けど見えない。ずっと下を向いているから。なぜかって?

こえええええ。高いとここええええ。もー無理です、神様。今すぐ十億払うので下ろしてください。おい、揺れたぞ今! 人が乗ってるのに殺す気かよ!

そう、おれはかなりの高所恐怖症だ。

が、そんなおれの悲痛な心の叫びは、年季の入ったスピーカーから流れる、当たり障りのない眠たい環境音楽にかき消された。続けて「お客さまの右手には雄大な…」と録音されたアナウンスが入る。寝ぼけたことをぬかしやがって。おれはもちろん、右手にあるはずの雄大な何かを眺めている余裕など一ミリもなく、ぎりぎりと歯を食いしばりながら、縞鋼板のマキビシの数を取り憑かれたように数え、言葉にならないうめき声を漏らしていた。

ちなみに人間の視野ってのは意外と広い。本当に床に目が触れるくらい下を向いて固まっていないと、それなりに左右の様子が窺えてしまう。ゆえに油断はできない。そろそろ終点かなーと思って一瞬でもちらと顔を上げたら、あんた、外にはまだ無限の虚空が広がっていて、おれはその瞬間、じぶんがとてつもない高度に浮かんでいる事実に気付かされ、ぶっ壊れてしまうだろう。

つらい。つらすぎる。つらいときは逃げてもいいんだよ──そんな気休めをしたり顔でのたまう偽善者どもの顔が脳裏をよぎった。

逃げ場がないからつらいんじゃねえか。

それでもなけなしの救いを求めて、スマホのロックを解く。震える指で「ゴンドラなう」とツイートしかけ、けど居場所を特定されるのがイヤなのでやめた。おれはどこへ行くときも、だいたい用事が済んでから、その場所のことをツイートする。たまたま近くに知人がいたりしたら、なんかめんどくさいからだ。

代わりに家人に「ゴンドラなう」とラインを送った。一秒、二秒。返事がない。くそが。

君は今頃、こう思っているかもしれない──そこまでしてなぜ、おまえはゴンドラに乗るのか? いや、まったくもって正しい。そのとおりなんですよ、はい。

けどな、おれは年に一度、雪に埋もれて雪山を見ないと死んでしまう呪いにかかってるんだよ。

ゴンドラはまだ終点につかない。

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