初めての

とても久しぶりにnoteを開いた気がする。それもそのはずで今年の3月に記事を書いてから一度もnoteを開いていなかった。
久しぶりに書く今回の記事は小説、映画化もされた『騙し絵の牙』という小説についての感想を書く。
以下は小説、映画共にネタバレを含むのでネタバレしたくないよ、と言う方はぜひ原作や映画を観てから読んでください。


『騙し絵の牙』は塩田武士が2017年に文庫として発売された小説であり、映画は2021年に大泉洋主演で公開された。私は映画、小説の順で観たのでまずは映画の『騙し絵の牙』の感想について書いていこうと思う。
映画『騙し絵の牙』はスピード感とサプライズ的展開に溢れている少しもボっとしている時間が与えられない映画だった。
そもそも映画はおおよそ1時間半から最長3時間ほど同じ場所にとどまって一つのスクリーンを見る。自宅であれば動画配信アプリなどで飛ばしたり早送りが出来るが、映画館ではそうもいかない。同じ席で映画の展開を待つしかない。しかしこの映画にはその待つという時間がほとんどなかったのだ。むしろ私は展開が予想以上の速さで心の中で「待って、早い早い!」という感じであっという間に終わってしまった。
『騙し絵の牙』の主人公である速水は出版社に勤めているが、出版社の派閥や媒体の電子化との闘いに巻き込まれていく。ただ映画では話のスピード感や現状をどう切り抜けていくのか、というサプライズ的な展開がメインになっているので速水という人間の内面的なものは感じにくいかもしれない。映画のラストでも出版社を辞めて次はどうするのか、という新たな展開を示したところで終わってしまう。そこには速水は常に流れを読んで淘汰されないように新しい策を練り続けなければならないという意志がある。しかしなんのために策を練るのか、生き残った末に何があるのかということは映画では表されないので小説を読むまで分からなかった。

そしてここから原作である小説の『騙し絵の牙』の話に入るが、小説は2時間に合わせた話の展開ではないため映画のような話のスピード感はない。主人公の速水は映画では常に新しいアイデアに溢れた敏腕編集長のように感じられたが、小説ではもっと人間味あふれる順風満帆ではない速水という人間が描かれている。自分の会社の派閥争いに巻き込まれ板挟み、妻とは離婚、文芸の編集としての希望も失われていく。その打開策として映画で描かれるようなアイデアが生まれていく。そして小説ではその真の目的と最終結果が描かれるのだ。タイトルの騙し絵の牙の持つ意味も分かるようになる。
映画と小説で共通しているのは主人公速水のギャップである。それは単に人間味のある速水のことではなく、編集としての速水のことである。
映画小説どちらも一貫として才能を持ち荒波乗り切る飄々とした態度と、作家と最高の作品を創るための努力を惜しまない泥臭い行動、この2つが速水の編集としての人間の主軸だ。ただこの面はどちらか一方しか見えない、だから騙し絵なのだ。そして映画の結末の先にあるのが編集として速水が成し遂げたかったこと、作品のそれぞれの生き残る道なのである。

そして小説を読んでいる最中、映画で大泉洋が主演だったこともあり小説の速水=大泉洋という認識になって脳内変換されていたのだが、解説を読んでその謎が解けた。
普段小説のあとがきや解説まで読むことはほとんどないのだが、今回は大好きな俳優大泉洋が主演の映画の原作だということもあり初めて解説まで読んでみた。冒頭の謎が解けたのである。それは大泉洋にあてがきされた物語だったのである。だから主人公の速水はどことなく大泉洋の特徴の一つである(と個人的に私が思っている)喋りによる飄々とした態度、長い芸歴の中でのシビアさやドライさという二面性が見え隠れしているように思われたのだ。
今後あてがきされた小説、漫画、映画それぞれ目にすることがあるかもしれないがこれほど主人公と映画の俳優が一致することはないかもしれない。






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