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無敵のモーツァルトとクラシック音楽の愉しみ

 サウンドの直感的な快、これこそ音楽における唯一の真実あるいは「第一定理」だろう。
 クラシックはもちろん、ジャズやロック、ブルース、ボサノヴァに至るまで、みな音楽はひとしく楽しいものだ。

 その点で言えば、私を音楽の原点に立ち返らせてくれるのは、いつも決まってモーツァルトのオーケストラ曲である。

 ハフナー交響曲は、ほとばしり出る音楽の愉悦である。
 鮮度抜群、キレッキレの第一楽章は、まさに序曲にふさわしい。
 駆け巡る音階はエネルギッシュでハツラツ、晴れやかにして爽快極まりない。

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 さて、喜劇オペラ史のみならず、全オペラ史に残るモーツァルトの不朽の名作といえば《フィガロの結婚》だろう。

 冒頭わずか30秒で思わず笑みがこぼれる、屈指の喜劇序曲である。
 《フィガロ》は、笑いあり涙ありの痛快ドタバタラブコメ(約3時間)だが、それをわずか4分間に見事に凝縮させた作曲者の手腕たるや、まさに天才。

 ハフナー交響曲も緩急や強弱の対比が十分に印象的な曲だが、フィガロ序曲はそれ以上である。
 ダイナミクスはまこと心にくく、一度盛り上げてからあえて音量を下げることで聞き手の注意力を高める。そして、ここぞというところで、とっておきの歌(メロディー)を聞かせる。だから、歌がこのうえなく引き立つ。
 
 
ちなみに、この傑作オペラのシンフォニー版が、交響曲第38番《プラハ》であることは言うまでもない。

 プラハ交響曲の第一楽章の(わざとらしいほどに)重々しい序奏が明けると、そこに広がるのは愉悦とともに駆けてゆく八分音符である。

 モーツァルトの八分音符は、躍動する八分音符である。
 エネルギッシュな八分音符こそモーツァルトの音楽の命、原動力である。
 
 一陣の風のごとく颯爽と駆け抜けてゆく第一楽章には《フィガロ》のアリアからの引用も散見される。
 この頃のイケイケノリノリの作曲者を象徴するような、ある意味で非常に健康的な交響曲こそ第38番ニ長調なのである。

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 30歳前後のモーツァルトは、神がかり的である。
 作曲当時30歳だった《フィガロ》を中心に、その前年と翌年にかけて、ピアノ協奏曲第20~25番や《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》をはじめとする名だたる協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲が成立している。上記のプラハ交響曲ももちろんこの時期の作品である。

 この時期のモーツァルトは、無敵状態である。
 晩年のような妙な暗さや陰鬱さもなく、明朗快活で健康的で堂々として自信に満ちあふれた、至極真っすぐな音楽、しかも円熟期のそれが展開されているのである。
 
 そして、この時期の作曲者を象徴する作品が《ピアノ協奏曲第25番ハ長調》である。

 モーツァルトのいいとこどり、まさに作曲者の魅力全部盛りの贅沢コンチェルトである。
 なお、この演奏のカデンツァは非常に興味深い。ぜひ一聴をおすすめする。ここで紹介する理由も自ずと了解されよう。

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 ところで、モーツァルトの映画といえば、やはりこれに尽きるだろう。

 中学生当時、DVDで観て、非常に衝撃的だったことを記憶している。
 父の死と《ドン・ジョヴァンニ》の失敗以降、モーツァルトは破綻の道へと突き進んでいく。映画ではそのようになっている。

 真偽はさておき、32歳以降、新作発表数は明らかに減少傾向にある。
 無敵状態の30歳前後、29歳から31歳にかけて、モーツァルトは毎年20作品近く作曲していたが、32歳はその半分、33歳はさらにその半分と、明らかな尻すぼみが見て取れる。

 晩年のモーツァルトは、どことなく暗く、はかない。
 長調であってもどこか覇気が感じられず、短調は言うまでもない。
 クラリネット五重奏曲のメヌエットのトリオ等、聞くに堪えないほどの絶望を感じさせる曲すら見受けられる。
 
 そして死の年、ついに《魔笛》が鳴り響く。

 愉悦とともに駆けてゆく八分音符は健在であった。
 堂々たるモーツァルトのオーケストラ音楽はここに有終の美を飾るのであった。