トレーニングされた犬=良い犬??
わたしは割と良く、犬や猫の記事を読む。
noteだけでなく、他のサイトや媒体でも読む。
そこで、ふと気になるものを見た。
「犬が使える公園が少ない」ことをメインに書かれたものだった。
今更ではあるが、犬(ペット)が入ってはいけない公園というものは少なからず(むしろ多い方か?)存在する。
入れたとしても、一定エリアのみなど、どこでも悠々と散歩できるわけではなかったりする。
犬好きのわたしとしては悲しく感じる。
「公園」という空間自体が人間のためのものだといえばそうだろう。
「犬を怖がる人や、犬に良いイメージを持っていない人も実際多い」
との声もよく聞く。
それは確かに、わたしもそう思う。
わたしがいくら犬の素晴らしさを訴えても、受け入れがたい人にとっては小煩いだけの話である。
わたしが引っかかったのは記事内のある意見だ。
「公園などの公共の場でも犬が受け入れてもらえるように、トレーニングされた良い犬を増やさないと」
という部分だ。そこを読んで、
「ああ・・結局は、人間に都合良い生き物でいろということなんだな・・」
と、少し切なくなった。
犬が生き生きと居られる場所を確保できるように、ではなく、人間のエリア内で迷惑をかけない犬を増やしましょう、というのだ。
読んでわかるようにこの2つはまったく意味が違う。
どこまでいっても、犬は人間の気に入る行動を求められるしかないのか。
犬らしさを極限まで押し殺して、又は捨てさせて、
「人間の好む姿でい続けるなら受け入れてあげますよ」というのは、本当に「犬を想っての」考えなのか疑問なのである。
そうでもしないと人間社会に受け入れられないのだから、不憫は承知だが犬のためだという考え方もある。
けれども犬をそんな立場に追い込むような社会を形成していったのは人間でもあるのだ。
わたしは自分の犬に、「犬らしく生きられないのは辛いだろうけど、現状これで我慢してね」とはなるべく言いたくない。
人が誰でも自分らしく生きたいように、犬にも犬らしく、犬らしさを発揮して輝いて生きてほしい。
ヒトに合わせて「良い子ちゃんな犬」でいなくても良いと思う。
もちろんそれでは今の人間社会で犬が生き辛いのはわかる。
敬遠されるし、コイツは社会性の無い悪い犬だと言われて最悪処分されることもある。
命を失くすリスクを負ううくらいなら、犬の習性を殺してでも良い子でいた方が良いという見方もある。
それもわかる。
現代社会において、そういう飼育が「飼い主にとっても犬にとっても必須」にまで昇華してしまったことが、わたしを葛藤させるのだ。
犬らしく訪問者に吠えても、「それが犬だ」と当たり前に認識されていた頃の時代の方が良かったのでは? とつい思ってしまうのだ。
今の犬は、訪問者に吠えないことを教えられる。
元来は、訪問者をいち早く察知して知らせるために吠えることを覚えたのだ。もしくは、覚えさせられたのだ。
今はそれを、やめろと言われている。
時代なのだと言えばそれまでだが、得体の知れない者から家族を守るために吠えている犬に、住宅事情までは説けない。
希望的な推測だが、少なくとも犬が本当に好きな人は、
心の奥底では「犬らしさ」こそ犬に最も求めているのではないだろうか。
それが犬の、犬独自の、最大の魅力だと知っているからこそ。
けれども、社会の風潮や現代意識がそれを良しとしないから、なかなか大きな声で言うことが憚られる。
「ホントは、犬らしくいさせてあげたいんです」と。
そんな折、山里の田舎で心温まる光景を見た。
猟師をしているお宅である。
そのお宅には、猟犬が数頭いる。
みな繋がれたりケージに入れられてはいるものの、見知らぬ訪問者には遠慮なく吠えるのである。
そして、猟師として長い経験を持つその家人は、
吠える犬を諫めず、犬たちの声は無視し、
当たり前に自然に、訪問者を招き入れた。
もしその方に、「犬が吠えるのを止めないのですか」と聞いても、
「犬が知らん者に吠えるのは当たり前じゃろう」
という答えがきっと返ってくる、
それが容易に想像できるような、心地良い光景だった。
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