【ショートショート】哀しい正義
それは意識して見たわけでない、ふとした光景だった。
ボディソープが切れていることに気付きドラッグストアに向かい、どれがいいか品定めしている僕の目に、ある光景が偶然目に入った。
老婆が、手提げ袋の中にシャンプーを一つ、そっと忍ばせたのだ。
商品入れ替えのために半額シールが貼られた、見切り品コーナー。
ボディソープが並ぶ棚に位置する僕から、やや斜め前にそのコーナーは設置されていた。
老婆はそこから、半額シールが貼られたシャンプーの小さなボトルを手に取り、不安げな顔で細い肘にぶら下げた手提げにそれを入れた。
――万引きだ。
僕は思った。
窃盗の瞬間を目にしたのは初めてだった。それもこんな、老婆が。
自分が盗みを働いたわけでもないのに、なぜか僕の心臓はドクンドクンと鼓動を大きくした。
店の人に、教えるべきだろうか。
いや、きっと教えるべきなのだろう。
だが、もしかしたら老婆はレジ前で商品を出して会計に臨む、ということもあり得るかもしれない。
どうすべきかとドキドキしながら思案しているうちに、老婆は不安そうな顔のまま見切り品コーナーから移動し始めた。
とりあえず、今見たことを店員に報せておこう。
その後は、店員が対処するだろう。
僕は老婆より先にレジに行き、空いていたレジ係の人に小声で、しかし単刀直入に先ほど見たことを告げた。
レジ係の人はそれを聞くと、連絡用のインカムだろうか、それを使って何やら誰かに連絡を入れたらしかった。
そのまま立ち去ればよかったが、僕自身ボディソープをまだ購入できていなかったので何となくその場に残った。
店長らしい中年男性がすぐさまやって来たのと、老婆がレジを素通りするのはほぼ同じタイミングだった。
店長らしい中年男性は老婆に声を掛けた。
老婆は、やはり万引きだったのだろう。
観念したように大人しく、少しうなだれていた。
「あ、この方が見ていたそうです」
レジ係の人が僕を指してそう言うと、「あなたも来てお話を聞かせてくれませんか」と店長らしい男性から言われた。
何故僕が、と思った。
僕は老婆の知り合いでもなんでもない、偶然の目撃者だ。
だが、こんなことは滅多にないのか、やってきた店長らしい男性も少々戸惑っているようで、それが何となく気の毒に感じた僕は、老婆がどうなるのかの好奇心もありバックヤードの事務所らしいところまで付き合ってやることにしたのだ。
事務所に連れていかれた老婆は全面的に万引きを認め、申し訳ございませんでした、申し訳ございませんでしたと、店長に目を合わすことも出来ずにただただ委縮して詫びていた。
それはとても、狡猾な老人の演技ではなかった。
見栄えの良い棚にたくさん並んでいたシャンプーではなく、「商品入れ替えのため半額・見切り品コーナー」から選ばれた、半額シールの貼られた一本のシャンプー。
事務所のテーブルの上にただそれだけが置かれた光景は、老婆の人柄から日々の生活など、色々なことを物語っている気がした。
店長らしい男性は、老婆をきつく責めたりなどしなかった。
もうこんなことしちゃダメだよ、おばあちゃん。
その穏やかな声に、老婆は小声で、はい、はい、と何度も何度も頭を下げた。
話を聞かせてくれと連れてこられた割にただの傍観者になっている僕は気まずかったが、それは僕をここへ呼んでしまった店長もそうだったらしい。
おうちに迎えに来てくれる人はいるの? と老婆に聞くと、僕の方を向き、
「この人の家に旦那さんのおじいちゃんがいるようだから、連絡してくるからその間だけいてもらっていいかな」
と告げた。本来なら店員に任せればいいのだろうが、僕を呼んでしまった手前、何らかの役を僕に与えることで彼なりのつじつまを合わせたかったのだろう。
いいですよ、と言うと店長はすぐ戻るからと言って、事務所を後にした。
事務所内には、僕と老婆だけが残された。
気まずかった。
僕が、老婆の行為を目撃して店側に告げたことで、この老婆は今こうして小さな体をさらに小さく丸めている。
無論、老婆の行為は犯罪であることに変わりないが、机の上のたった一本のシャンプー、「見切り品のため半額」とシールが貼られたそれが、何故か僕を責めた。
しばらくして、店長が戻って来た。
「おうちのおじいちゃんが、迎えに来てくれるそうだからね。まあ、お茶でも飲んで待っていましょう」
店長はそう言うと、従業員の休憩用なのだろう緑茶のティーバッグを湯呑に入れ、ポットから湯を注ぐと、僕と老婆、そして自分の前に出した。
老婆は、何か謝っているようだったが、小声でそれは聞こえなかった。
ただ、茶に口もつけず、ずっと頭を下げていた。
――とても、居心地の悪い時間だった。
自宅が近かったのか、十五分ほどして老婆の夫である老人がやって来た。
店員に案内されて事務所に入って来た老人は、自分の妻が万引きで捕まったというのに、ニコニコして事務所に入って来た。
「ばあさんや、シャンプーは買えたかね」
老人は、ただニコニコして妻にそう聞いた。
事態を把握できていないようだった。
老婆は自分の夫を見て、悲しそうに微笑みかけ、首を横に振った。
「そうかあ、シャンプーは売り切れだったかね。それは、仕方ない」
老人は穏やかにそう言うと、じゃあ帰ろうかねえと言ってニコニコしたまま、老婆に声を掛けた。
老婆はそんな夫を寂しそうな笑顔で優しく見つめた後、僕たちの方に向き直って、深々と頭を下げた。
そして二人の老人は、事務所を出て行った。
なんだか、やりきれないものが心に残った。
僕は今日、正しい行いを一つした。
そして、心が哀しくなった。
FIN
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