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大袈裟にフェミニストっていうわけではないけれど、違和感を覚えてきた事柄について。


ー無意識を違和感の目で見てみるー


お楽しみ様です。

早速使ってはいるんですけど、お楽しみ様って、なんだか面白いですね笑
流行語大賞にノミネートされようと必死なピン芸人みたいで自分で苦笑しています。






さて今私が再読している本がありまして。


フェミニストってわけじゃないけど、どこか感じる違和感について

言葉にならないモヤモヤを1つ1つ「全部」整理してみた

パク・ウンジ 著
吉原育子 訳 ダイヤモンド社


大学生時代、このなんとも言えない題名に惹かれ、
リーダーの仮面とか、使える営業法、とかのビジネス書と一緒に購入したのを覚えています。

フェミニストって聞いて、やっぱりちょっと怯んじゃう自分がいるんです。
この本を買ったときは特にそうで、大学の授業で声荒げて男性嫌悪を言っていた女性職員は醜く見えたし、多少モヤモヤすることはあったとしても自分もこの既存社会で#若い #女 であることで恩恵を少なからず受けていると感じていたからです。
私はフェミニストです。と公言すればきっと男性や今の社会に満足している人から白い目を向けられると信じていました。



さらに当時、私はキャバクラとまではいきませんが、昭和感の感じるスナックではない、比較的きらびやかなスナックに勤めていましたし、
専業主婦に憧れる同級生もいるのだから既得権益もそりゃありでしょ、と考えを持っていました。
職場では学生でありながら女の子をまとめる立場にいて、自らも「女」を売っていました。
接客業が好きですし、ついでに稼ぎもしたい。そして何よりセクシーな服を着るのが好きだったんです。
ですから積極的に胸元の開いた、お尻の形がよくわかるような服を好んで着ていました。







しかしある時からはっきり芽生えるようになった感情に向き合わざるを得なくな理ました。フェミとまではいかないけど、女性のことに関して思うことがある、何かわからないけれどちゃんとモヤモヤしている自分がいる。
既得権益と違和感の間にいたんですね。
そこで思い出したかのようにこの本を読み返し、

こう、自問自答してみました。

“なぜ私はセクシーな格好をしていたいのか”

そう考える基準や、選択の理由を探るのもいいかもしれないと、作者のパク・ウンジさんもおっしゃっていましたが(p.118)、こんな機会がなければ無視してしまうのが常です。




なぜ私はセクシーな格好をしていたいのか。


パッと思いついたのは、帰国子女がまだ珍しかった頃でした。
私はその頃歴とした出る杭でした。
しっかり制裁を受けたからこそ得たスキルは『同調』。
右に倣えの学生生活で何より必要だったのは巻かれるための長いもの(者)を見つける能力でした。
反吐が出るほど嫌いなこの風潮。
と言いながら、いまだに抜け出せていない感覚でいます。




いつの間にかなってしまった日和見的な自分を打ち勝つように
気の強い、セクシーで開放的な人柄を演じる(なりきる)ことによって、
個性的で人が歩くような道には全く興味がありません、なんていうマウントをとりながら、
それでも貴方たちよりかは楽しく正しく生きています、と主張できる快感が
私をよりアクティブに、派手にしたのでしょうね。
きっと私にとって、歴とした自己表現の重要要素なのです。

魅力的でセクシーでいる。
きっと子供の頃の自分のためにする唯一の復讐行為なのかもしれません。







しかしここで私を苦しめたのは、それを軽んじるこの国の文化でした。

自分でもわかっているのですが、私の身体は他の人よりもそれらしく(俗にいうエロく)見えます。同じ服を着ていてもどこか違う。
それが魅力だともわかっているのでいいのですが、受け取り側(私を見る側)はそれだけではない気がしてしまう。

やっぱり見た目や他者からの評価が気になる人間ですので“可愛いね”や“セクシーだね”などの褒め言葉はやっぱり欲しいです。しかしその後ろには“淫らだ”、“ヤらしてくれるのでは”という勝手な思想があるように感じてしまうのです。




それでも私は中身を見てもらいたかった。



顔がいいから好き。
ヤリたいと思ったから近づいた。
そんなことよりも私が何に違和感を覚え、何を大切に生きているのか、
若いなりに、浅いわりに、どうやって命を燃やしているか。
そこに興味を持ってもらいたい。かっこよくいうならば、人間的なお付き合いがしたかったんです。


「どうせヤりまくってるんでしょ?」という言葉。
「女の子はいくらでも生きていけるからいいよな」に反対できない私。
私を「女史」と呼ぶあの人。
タクシーで怖い目にあった同僚を「あんなブスがそうなるはずがない」と笑う人。


これらの会話で笑いたくなかったのです。





そこで私の大切な人からの言葉を思い出しました。

“日本人”が貴方をそうみるのではなく、
貴方が初めから“そのように感じている”だけ。

まだ真意には辿り着けてはいませんが、
意識を、もっと自分の感覚に引き寄せないといけないのかもしれません。
えっとつまり、
私が感じる目線や言葉は、自分自身から起こっているのだと、そういうことなのかもしれません。





そういう場だから「しょうがない」
それが今までの常識だから「しょうがない」
これまでの私はこの魔法の言葉を使って言い聞かせていました。
しかし無意識にそうやって
自分が自分を差別してしまっていることに気づき改める必要性がありそうです。









なんとなくのまとめ



自分が欲している賞賛や評価がもし、「構築的に思い込まされていたもの」だとしたら、
私自身が自分をうまく評価してあげれてないのだとしたら、
その常識や普遍が連携につながり、社会問題に「加担」することになっているのかもしれないと、少し怖くなりました。
しかしこうやって無意識的な選択を、違和感の目で見てみることによって、
自分がもう一度考えるべきポイントに巡り合う近道になるのかもしれないと感じました。





1年前ぐらいから私は、
セクシーを大衆化させたい
という個人的な目標?到達点?道?を置いています。
この本や最近の出来事、思い出すこと、色々総称しているような気がしています。

今は別に何か活動をしているわけではなくて、
自分の行動や言動、選択基準がこれに沿っていたらいいなぁ、という軽めな感じです。


こう生きているんだ、
と、言えることが私が!いいと思うから。
自分の軸は強くありながら、柔軟であって欲しいと私が!思うから。
だからもう少し今を違和感の目で見ていきます。(言い切り!)

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