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現職教員の教職大学院での学び14 -贈る言葉-

 私がnoteを書く時の文体は、ほとんどの場合敬体である。文章自体が読みやすいかは別として、敬体の方が読み手の心理的な負担が減るのではないかと思うからだ。常体で書くのは大学院のレポートや実践論文を書く時くらいである。
 例外として、自分の中の節目の出来事があった時や、何か溢れる思いがある時は知らず知らずのうちに文章が常体になることがある。今年度最後のnoteも、知らず知らずのうちに文体が常体になっている。

2023年4月

 教職大学院で共に学んだ仲間の多くが3月をもって修了した。共に切磋琢磨した仲間が旅立つのはやはり淋しい。
 入学前は、自分が2年履修ということもあり、1年履修の仲間とは何かしらの「距離」ができるのではないかと想像していた。何となくそれは寂しいなと思いつつも、どこか、「距離」ができてほしいと願っていた部分もあるかもしれない。なぜなら、「距離」が近くなりすぎると別れの時が辛くなるからだ。

2024年3月

 所属する自治体も違えば、学校種や経験年数も違う。当然、教育観やそれぞれが思い描いている将来像も違う。そんなメンバーとうまくやっていけるか正直不安もあったが、気が付けばあっという間に1年が過ぎていた。
 違いがあるからこそ、わかりあえるものがある。違いがあるからこそ、腹を割って話せることがある。違いがあるからこそ、本気で議論できる。誰もいなくなった部屋でそんな思いを抱いている。
 距離ができてほしいという願いは見事に叶わなかった。気がつくと、どっぷりと今年修了する仲間に浸かりきってしまったようだ。

 私は教育現場におけるチームづくりに強い関心がある。だからこそ同期の院生とも良いチームでありたいと入学当初から思っていた。ただ一点、「研究」だけは違うのだろうと想像していた。自身と向き合いながら、1人黙々と先行研究を調べたりデータ分析をしたりするのだろうと考えていた。
 これらの行いが必要な時期もあったが、結局「研究」というものを1人で行うのは難しいという結論に辿り着いた。(私のようなものが「研究」という言葉を使うのは烏滸がましいと自分でも思う。今回はご容赦願いたい。)
 自身が得た知見や成果を基に、自分だけで研究や学びを進めることは、多分、早くできるのだろう。ただ、広がりは少ないと感じる。自身や仲間のもっている知見や得られた成果を基に、お互い議論し、支え合い、時には発破をかけ合うことで自分だけでは見えなかったものが見えてくる。それが自分の、そして誰かのまた新たな学びにつながる。そのような、不確実ではあるけど爆発力のある学びは仲間とでしかできない。

 アフリカの諺だそうだが、下記のような言葉を思い出した。出典が曖昧な点が、何とも自分の立場を考えると皮肉なものだと感じるが、これはこれで自分らしいとも思う。勝手に贈る言葉としたい。

早く行きたいなら一人で行け、遠くへ行きたいならみんなで行け

正確な出典不明 岸田首相やアル・ゴア氏が演説で使用

 早く行くことが悪いことではない。ただ、早く行くことだけを考えすぎるのは、自分の中に閉じこもることになる。早くいったところで頭打ちになる。最終的に自分が達成したいことは何かを考えるのであれば、早く行くよりも遠くへ行くことを考えたい。
 そのためには、仲間が必要だ。仲間と共にしかできないことが絶対にある。今年度修了される皆さんには、大きな大きな夢があるはずだ。だが、その夢はきっとまだまだ遠くにあるはずだ。新たな場所で、新たな仲間と共に、さらに遠くへ歩みを進めてほしい。
 でも、疲れた時や迷った時は、足元を見て、後ろを振り向き、一呼吸置くのを忘れないでほしい。時々戻ってきてほしい。一緒に過ごす時間が減った仲間にも頼ってほしい。そんな思いを抱いている。

 気温も上がってきた。心地よい春風も吹いている。耳には聞こえないが、スタートの笛の音が鳴っているような気がする。

感謝!

私も新たな仲間とスタートだ。

ご機嫌にいこう🌸

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