見出し画像

若さという価値の正体

 はやかわです。

 男女の恋愛でも男同士の恋愛でも変わらないなと思うことがあります。それは外見至上主義と年齢の呪いです。相手が男だろうと女だろうと、多くの男が相手に外見や若さを求めます。その裏返しとして、容姿が得意なひとや若さが武器になるひとはその価値に振り回されて消費される商品となり、容姿にコンプレックスのあるひとや若さのピークを超えたと感じているひとはそのことに悲観しています。マジョリティの男性が女性に求めるものの傾向や、マジョリティの女性が感じている恐怖は、恋愛対象を消費しようとする姿勢によって生み出されるのだなと思います。
 ちなみに男性本能としては、「愛している」「一生守る」と覚悟をする決め手としては、相手の年齢や外見と関係ないところにあるものです。そのためここでいう「恋愛対象の消費」というのは、暇つぶしの恋愛や性的消費などの覚悟のない恋愛を指します。

 外見至上主義も年齢の呪いも、議論されて長い話題なんじゃないでしょうか。どちらについても思うところがあるのですが、今回はぼくの年齢の呪いとの向き合い方について聞いてください。

 年齢の呪いと聞くと、逃げ恥の石田ゆり子さんの素敵なシーンが浮かぶ方が多いんじゃないでしょうか。この言葉に救われたひとはたくさんいると思います。ぼくもそのひとりです。身の周りにある知らないうちに刷り込まれたじぶん又は将来のじぶんを否定する価値観を、呪いと表現することにはじめて出会いました。これはぼくにとってはとても印象的で、以降の人生でとても役に立っています。

あなたはずいぶんと自分の若さに価値を見い出しているのね。
私が虚しさを感じることがあるとすれば、あなたと同じように感じている女性がこの国にはたくさんいるということ。今あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分がバカにしていたものに自分がなる。それって、辛いんじゃないかな。
私たちのまわりにはね、たくさんの呪いがあるの。あなたが感じているのもそのひとつ。自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい。

逃げるは恥だが役に立つ/土屋百合(石田ゆり子)

「もう若くないから」
 最近仲良くしている数個下の同じ村の友人が口癖のように言います。
 もう若くないから誕生日きても嬉しくないよ、もう若くないからこんなおじさん需要ない、もう若くないから相手を選んでる場合じゃないんだよね、もう若くないからごにょごにょごにょごにょ…。
 まだ二十代後半にさしかかったくらいでこの子はなにを言っているんだろう、その年齢はそもそも若いし、年齢と関係ないところであなたはあなたとして魅力的じゃないか。
 年齢に似合わずに地に足つかないことをしている、将来を考えない行動をするのは違うと思います。そういう意味で、もういい歳だからとちゃんとするという年齢を踏まえた前向きな方針は、個人的には好ましく思います。
 一方で、年齢を理由にじぶんを否定することや不自由になることはそれはそれで違うんだろうなと思います。苦しいなと思います。
 ぼくは二十五歳、二十六歳くらいでこの村に入村したので、いわゆるこの村でちやほやされる若い時期を経験していません。もし経験していたら、その需要の減少に落ち込むこともあったのかもしれない、ひとから求められることが目に見えて減ることを経験したら、否定的になるのも仕方がないかもしれません。それでもぼくは、年齢を重ねることが、若さの価値を失うということがそのひとの価値が失われていることだとは思いません。

 しかし若さには間違いなく需要があります。この若さの価値ってなんなんでしょうか。
 ぼくは若さの価値を、能力としての価値、未確定であることへの価値、商品としての価値の三つで構成されていると思っています。
 能力としての価値は、勉強にしても運動にしても若くない人に比べて吸収がしやすいことです。体力や健康的な肉体という側面もあると思います。
 未確定であることへの価値というのは、まだその人自身の将来が未確定でどういうった人物にもなりうることが出来るという、証券用語でいういわゆる時間的価値のようなものです。一人前になるまでの残りの期間が長いほど価値は高くなります。「まだ若いから」と年齢を理由に許される場面を想像するとわかりやすいと思います。
 商品としての価値というのは、消費される性質の価値です。たとえば十代ブランドだったり学生ブランドだったりを想像するとわかりやすいです。商品として手に取り、消費したら捨てます。きっかけにはなると思いますが、外見や若さを理由に本気でひとを愛すというケースはまれです。付き合う理由にはなりますが、別れをとめる理由にはなりません。真剣に将来の相手と出会いたいとき、若いことって特に魅力的な項目にならないのではと思います。
 能力としての価値は他人から見えないもので、自らが感じ利用するものなので重要な資本の役割を担います。一方の時間的価値と商品としての価値は他人の目に魅力とうつる部分です。

 若さの価値を定義したところで見えてくるのは、つまるところ、若さの価値が減ったって別にいいんです。能力としての価値はそれを自己投資することによって、そのひと自身の価値となります。なくなったと思っていたそれは、姿を変えてそこにあり続けます。これに伴い、時間的価値は本源的価値に変わります。そして商品としての価値は、この先の人生で必要なものを手に入れるために、必ずしも必要ではありません。減ったのはあなたの本質の価値じゃない、ブランドをとりあげられただけです。そして投入した若さと引き換えに、あなたは自分自身の価値を築いています。
 それをふまえて、歳を重ねることが嬉しいです。いろいろあっても、今日も生きていてよかったと思う毎日が続くことが愛おしいです。それはもしかしたら、もう若くないことへの言い訳、強がりに聞こえるひとがいるかもしれません。だからなんなんですかね。ぼくの幸せはぼくが決めますね。

 若いということにたしかに価値はあるし確実に減るけれども、必要な投資を前提として、姿を変えて別の価値としてそこにたしかに存在し続ける。若さブランドはこの先の人生に必ずしも必要じゃない。今日も生きててよかった。これがぼくの年齢の呪いへの向き合い方です。

 同じように、その友人の向き合い方はその友人が決めることです。ぼくがなにを言おうと、彼次第です。でも、そんな恐ろしい呪いからは、さっさと逃げられるといいですね。

 以上です。よろしくお願い致します。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?