休暇
わたしは根っからの出不精だ。家を出なければ1000万円貰える大会があれば間違いなく一番高い表彰台に立つことだろう。それなのに1週間も経たない内に暇でたまらず、自発的に散歩に出かけるようになった。
産休という制度は本当に有難い。少し肉付きが良くなった以外は健康そのものであるわたしが得た2ヶ月半の休みは、絵に描いたような朗らかである。ショートコント「朗らか」と言いながら今のわたしを見てもらえば作品として成り立ちそうなほど。時間に追われないというだけでこんなに幸せだなんて。命本来の在り方を知ったような気になる。ドライフルーツみたいにくたびれていた細胞が今にも弾けそうに水を含んでいる。鏡に映るわたしは毎秒若返っているに違いない。蝉の声を聞く度に、ブランコに揺られ駄菓子片手に夜を待ち侘びた夏祭り当日の15時半にトリップする。中学、高校共に夏と言えば夏休みであったはずなのに、何度も思い出す長期休暇はやはり小学生時代のそれである。この強烈なインパクトは当時の大人たちの勤労、努力により発展途上の脳を乱暴なほど耕してもらった成果だろう。先日宮崎産のマンゴーを頂き、舌に乗せると同時に直接脳に甘みを注射されたのではと3~4度瞬きする程の電流が走ったが、あの体験さえも来月にはきっと忘れてしまう。リビングのソファーで寛いでいたはずが目の前のマンゴーと共にいつの間にか南風に吹かれサングラスでハンモックに揺られている、その衝撃はとんでもない非日常なはずなのに。
現職に就き気付けば10年以上経っていた。忙しく余裕のない上司の対応のせいかとにかく離職率が高く、入社時にお互い頑張りましょうねえと愛想笑いを向けてきた同士が1ヶ月程度で飛んだことは忘れない。鬼がF1レーサーばりの速度で追いかけてきてるのかと問いたくなるほど余裕なく常々苛立っている上司は毎日投げるように電話を切っていた。受話器がバウンドし、定位置に戻らないことで更に乱暴に置き直す様子はもはやPCの起動画面と大差ない頻度で見ることになり、今日は3回置き直したから話しかけるのは危険だ、今日は1回もバウンドしなかったからイケそうだ、と受話器のダンスは「お伺い」に役立った。怒りの矛先は受話器だけに留まらず、デスクの引き出しに向けられることも多かった。島一体が揺れるほど乱暴に開け閉めされる彼女の引き出しは、わたしのファニーボーンを定期的に痺れさせた。
わたしは社内営業が得意ではなく、愛想を振りまく甘えんぼ後輩タイプでも意見をガンガンぶつける革命家タイプでもないため働き始めは大抵ナメられる。言ってもイケる枠として強く当たられる機会も多く、社会人を始めたての頃は辛いこともあった。そうは言っても自分を受け入れた上で努力を重ねるしかない。自分にも社会にも負けたくなかった。会社はよほどの事がない限り従業員を辞めさせることが出来ない。ならどんなに辛く当たられたとしても自発的に辞めてたまるか。いつまでもしぶとく居座ってやる。そして辛く当たる上司を間接的に苦しめてやる、ざまあみろと思っていた。そんなこんなで気付けば10年。コツコツと信頼を積み上げ今ではそんな上司のお気に入りとして誰よりも可愛がって頂いている訳だが、今もなお仕事なんかに負けてたまるかという気持ちは持ち続けている。
数年経過し、新人の育成を任されることになった。初対面の人に仕事を教える、これは本当に苦行である。人によって癖や感覚が違うためアプローチの方法を毎回変える必要がある。相手に変化を求めてはいけない。そんな事をしても時間の無駄でありストレスが溜まるだけだから。自分がいかに相手に合わせ、そのままゴールに導くか、それに尽きる。気分はカメレオン俳優だ。目的は一定期間を経た新人が大きな手助けなく仕事を出来るようになることであり、自分の機嫌や物言いで支配することではない。例えば1時間でリンゴの皮を剥いて食べるという課題に対し、1週間かけて皮を半分だけ剥く人がいれば、何日経っても一向に剥く素振りを見せない人もいる。何故リンゴを食べないといけないんですか?食べたくないんですけど?と逆切れする人もいたし、指示外のウサギちゃんカットをすることに専念して完成品をひたすら眺めている人もいた。
どんな人に対しても100%漏れなくリンゴの皮を自力で剥かせ、自分で口に運ばせるのがわたしの仕事である。その為にはリンゴを食べるメリットを相手の耳に都合良く届け早く剥きたくなるよう誘惑する必要があり、皮を剥きたがらない者に対しては率先して楽しそうに剥く姿を見せる必要もあり、お腹がいっぱいで食べれないと泣き出す者に対しては今日は9割食べるから1割食べてみようよ、来月には2割食べれるようになるよ、わたしがそれをお手伝いするよ、と笑顔で励ますことも必要だ。もはやカメレオン俳優ではなく介護である。
自分が知っていることを人に教える、これにはとにかく根気が必要だ。説明しても出来ないのは当たり前であり、相手のミスは伝え方を誤った自分の責任だ。まずは専門用語を使わないよう工夫が必要だし、顧客とのコミュニケーションは毎回イレギュラーの繰り返し。あらゆるパターンを先読みして伝えておかないといけない。世の中には自身の詰めが甘いことを新人のせいにして愚痴マシーンと化す上司が多い。分からないくせに聞いてこないと言うなら聞きやすい環境作りが必要だし、教えたのに何回やらせても覚えないと言うならどうすれば覚えるかを数種類のアプローチで試す必要があるし、期限を守らないと言うなら守らせる為に自分は何をすべきかを考えた上で頻繁に進捗確認の声掛けをすべきだろう。すべきことを面倒がらずに実行すれば最短距離で終わるのに、それをせず文句を言うのは時間の無駄、非効率でしかない。ただ、無理をするくらいに手を差し伸べていても、入社早々こちらの揚げ足を取ることに躍起になり屁理屈でマウントを取ろうとする変わり者もいる。その場合も相手の発言を何パターンも予想し、こちらの返事を同じ数だけ準備して最終的に従わざるを得ないよう導かないといけない。ただのOLのはずがカメレオン俳優から介護士になり、挙句探偵のような詰め方までしていかないといけないなんて信じられない。
会議についても、最初の頃は自分がどんな発言や提案をして良いのか分からず、というかそもそも会社の決め事になんて興味ないし、とにかく余計な発言をして上司に詰められないように、それっぽい意見に大袈裟に相槌を打っていかにもそう思ってましたよという風に見せて同調しておくか、ということだけを一生懸命考えていた。場数を踏み気付けば意見することにも慣れ、現状の問題点やそれに対する改善案を見つけて発言することが出来るようになった。自慢ではないが、わたしの提案や意見が通る機会が多かった。大勢を納得させるには、周りの人や会社全体がいかに楽になるかを考えるべきで、自分のことは二の次にするスタンスは必要不可欠だ。とは言え組織として動くのだから自己犠牲オンリーで動いたとて無駄だし皆さんのために無理しまっせ精神の意図は見え見え、評価もされず非効率である。あらゆる視点でのメリット・デメリットを挙げ、メリットが最も多くデメリットが許容範囲内のバランスの取れた意見を出せば非の打ちどころがないのだから全員が納得する。突飛な意見も取り入れられることは稀なため、同僚や上司が普段からどういった信念で動いているか、何に重きを置いているかを観察して理解しておく必要もある。考えた案が通ったとしても大金をもらえる訳でもないためあまり時間をかけたくない。手短に考えて出した案が通ると、それが自信に繋がり、更に意見を出しやすくなるため良いこと尽くしだ。周囲の人の気持ちを慮り、視野を広く持つことで大抵のことは上手くいくのだろう。長年過ごした平日おおよそ8時間から、これに気付けたことは何よりの収穫である。
そんな経験を経て、あと2ヶ月もすれば泣く・寝る以外で意思表示が出来ない新生児を、自分の睡眠時間を無視して守っていかねばならない。少しでも目を離すと死んでしまう可能性があるか弱い生き物に対して、自分がどんな風に知恵を絞るのか今から楽しみで仕方がない。どれだけの苦労が待っているか想像するだけで恐ろしい気持ちが9割を占めているが、自分と向き合い続けてきた結果として、わたしはわたしに負けないことを知っているから、きっとやり遂げられるだろう。
最後に一言。産休、サンキュー。
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