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SNSの可処分時間獲得競争から逃れよう

先日、「SNSの疲れをいやす方法」という記事を書きました。
今回はその続きです。

前回の記事は、フィルターバブルで囲まれたSNSは自分が制御できない情報であふれており、遠ざかることでしか自分へのダメージを減らすことはできない、という内容でしたが、現在はそこからさらに踏み込んで、もうSNSを止めたほうがいいと感じています。

私は、Facebook、Twitter、Instagram、mixiという4つのアカウントを持っていますが、mixiはかなり以前に放置しているので別として、その他3つも、もう自分からの発信はほぼしていません。

Facebookが過去一番発信量が多かったのですが、もう発信はしておらず見ることも減らしました。

すると、自分へのダメージが減ったからなのか、明らかに気分が軽くなり、時間と脳を有効に使えている感覚が強まっています。

そしてそれで空いた時間を、何かを考えたり、noteに書いたり、好きなものに没頭する時間に充てています。


SNSの中で自分を見失う


SNSを止める前のネガティブなスパイラルはこのようなものでした。

・自分が必要としない情報が嫌でも目に入り、ダメージを受ける
・それに抗って自分の情報を発信するが、大量の情報にかき消されてしまう
・外部の不必要な情報の勢いと、それに負けた自分の力のなさに、さらに傷ついてしまう

しかしSNSを止めた後、ポジティブなスパイラルが起きています。

・多すぎる投稿のミュートや不必要なフォローを外し、見る時間を限定して心理的負荷を下げた
・SNSに占有されていた時間や記憶が解放された
・その時間を自分のためだけに使えている

SNSは自分以外の情報が絶えず流れてきて、見ているだけでも退屈をしのげて楽しい気がします。
しかしそれが良くなかったようです。

SNSの情報量の多さと自分の発信力の少なさによって、自分の存在が無意味に感じられるようになったからだと思います。

よってそこから遠ざかることでダメージと無駄な時間の消費が減り、自分主体の受発信ができるようになりました。


ちなみに、noteもSNSの一種ではないかという意見もあると思いますが、私はそうではないと思います。

その違いは、自分の投稿が中心にあるかどうかにあります。

書かない人にとってどうかは分かりませんが、書いている私にとっては、自分の思考と文章に向き合える数少ない場であり、自分の存在に意味を感じることができます。

もちろん書かない人でも、自分が共感や応援できる存在をnoteで見つけ文章を読み共有する行為を通じて、自分がいる意味を感じることができるのではないでしょうか。


対等につながれるという幻想


SNSは、自分が常に発信者でい続けるという意志がある場合を除き、傍観者となって情報流通におけるヒエラルキーの下側に位置せざるを得ない仕組みです。

そのヒエラルキーの上位には「強力な発信者」が君臨しますが、個人の努力のみでその位置を占めるのは非常に難しく、結局従来のマスメディアと同様に、情報発信力を持つ企業やグループが上位を独占してしまいます。

また個人の発信者も、良くも悪くも耳目を集められる目立ち力がある人が支持され、タイムラインの最もいい位置を占めるようになります。

内容よりも注意を常に引き付けられるかの勝負では、静かで深い思考や意見はあっという間にかき消されてしまいます。

そしてそのヒエラルキーを、AIやフィルターバブルがさらに強化し、一般の参加者は意図しない大量の情報に翻弄され続けます。


SNSが少数のつながりで成り立っていた頃は、個人主体の狭くて楽しい場でしたが、もはやそんな風景はなくなり、グローバル企業の主戦場として世界の人々を巻き込んで「可処分時間」の獲得競争を繰り広げています。

人の注目を常に集めて飽きさせないよう駆り立てる、そんな競争には巻き込まれたくないですし、そういった企業が何を考えているかよく分からないという得体の知れなさも、自分を不安にさせる要因の一つだと思います。

もちろん今のSNSに抵抗を感じず楽しく活用できている人であれば、何も問題はありません。

私は、これからもSNSという「便利なオンラインアドレス帳」は持ち続けますが、それを開くのはたまにで十分だと思います。




[マガジン] 平成って何だったの? こちらからもぜひお読みください!


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