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コロナに感染したら責められる社会

新型コロナウイルスの感染者は徐々に減っていますが、まだまだ予断を許さない状況が続いています。

一方でマスクや自粛生活に飽き飽きしながら、もう一方では感染症の恐怖にうっすら怯える毎日。

私の家でもついこの間妻がコロナに感染し、幸いとても軽症ですみましたが、家族と隔離されなければならない生活を数日間送りました。

そこで非常に感じたのが、実際に濃厚接触者となると、いくらコロナがもう感染のピークは過ぎていてワクチンもきっちり受けていて、オミクロンの重症率が低いと知っていても、万が一の病気の可能性に身構えてしまうということです。

またさらに否が応でも実感させられたのが、このウイルスは生命を脅かす病気であると同時に、非常に社会的な問題でもあるということです。

それは、自分の健康が不可逆的に損なわれるのではないかという恐怖とともに、自分を介して周りの人、特に弱い人に感染させてしまう「戦犯」になるかもしれないという恐怖、さらにそのような事態を招いた不注意さを社会的に責められ、自分のダメさを突きつけられるのでは、という恐怖です。

私は考えすぎでしょうか・・・?


無謬性の信仰


無謬性とは、間違えることができない、間違えることは許されないという考え方ですが、コロナ禍が始まった日本でこの考え方が非常に問題を起こしていたと思います。

流行初期にマスメディアなどを通じて伝えられていたこのような意見を思い出してみてください。


"ウイルスに感染するような間違いは犯してはならない"

→ウイルスの感染や重症化はゼロにできないし、病気にかかることは間違いではない。誰にでも起こりうること。


"若者は重症化しなくても国民が不安を感じるのでコロナにかかってはならない"

→重症化しないならただの風邪。確率というエビデンスを見る必要がある。重症化の可能性ある人を特定しその人の身を守るほうが効率的。


"感染の危険性を高めるお酒等の提供をしてはならない"

→酒の提供や店の営業ではなく、感染者が飛沫を飛ばすことを防げばよい。
自粛のイライラを酒場などの「楽しそうな場所」に向けるのは筋違い。


"自治体はどんな緊急事態でもワクチンの手配を間違えてはならない"

→前例のない事態には完璧などありえず、試行錯誤によって正解にたどり着くしかない。それには社会全体で協力したほうが効率的。
ワクチンの提供に多少間違いがあっても国全体として接種が進めばよい。


これらはマスメディアやTVなどでよく見られた意見ですが、「○○してはならない」という合理性を欠いた多数派の意見が、普通に考えれば当たり前の合理的な考えを否定していたように思います。

間違えてはいけないという無謬性はとても強くて正しい論理なので、それを盾に攻撃されて耐えられる人はいないと思います。

私が濃厚接触者になった際に感じた恐怖の一部は、そういった「無謬性の信仰」とでもいうべき圧力が現実にあり、それに自分や家族が反してしまうのではないかという恐怖でした。

その証拠に、私は良くないことだと分かっていながら、自分が濃厚接触者になっていたことをあえて伝えていない人がいます。
(もちろん直接接触する人には伝えました)

その相手が万が一にも無謬性の信仰者であったら、自分の過ちを告白して自分と家族の信用を毀損するような、うかつな真似はできません。

やっぱり私は考えすぎでしょうか・・・?


危機を前に合理性が敗北する瞬間


強力な感染症によって死ぬかもしれないという恐怖の前には、冷静で合理的な思考と行動より、目の前の恐怖をかき消してくれる強い何かがより求められるように感じます。

コロナウイルスという恐怖に対しては、「無謬性の信仰」という何にも負けない強い考えが社会には必要で、ちまちまとエビデンスを調べて合理的に考えて行動する余裕は多くの人にはなかったのだろうと思います。

私は当時のマスコミやTVの無謬論に対して、正直言って「アホだな~」としか思っていませんでしたが、今その重大さにようやく気づけました。
もちろん肯定はしませんが、不安の拠り所としてそのような極論が求められうるということに対して認識を改めました。

無謬論に依存する人は、社会不安を煽っているのでも陰謀論を唱えているのでもなく、純粋に恐怖を感じ、ただそこから逃れるためにあがいて、理解しやすい考えにすがっていたのです。


2002年(平成14)と2012年(平成24)にSARS、MERSという,新型コロナウイルスに非常に似た感染症の流行がアジアや中東などの多くの地域でありました。

致死率が高く危険性は現在のコロナの比ではありませんが、流行した地域が限られたため、幸い日本はその流行にさらされず、ウイルスの恐怖から遠ざかることができていました。

しかしそのことが災いして、今回の新型コロナウイルス大流行の際に、大きな恐怖に対して社会が合理的に戦う方法を知らないまま、無謬性という非合理的な考えに囚われてしまったのではないかと思います。

要は感染症に対する危機感がなさすぎたということで、今回の新型コロナの後に来るであろう次の疫病や災害の際に、今回学んだことを生かせればいいと思います。



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