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「毎日書く」ことを手放す、500日目の決断

昨日の意味深なnoteからお察しの方もおられるのだろうか。

2021年1月1日を起点に数え、今日は500日目。
そう、noteを(曲がりなりにも)毎日書いて、500日目になるのだが。

これを、今日をもって手放すことにした。
「毎日書く」ことを、だ。「書く」ことを手放すことはたぶん、生涯ありえない。

思い返せば。
「1日目」の2021年1月1日、1年間の連続更新を宣言したくせに、続けることそのものにむちゃくちゃ弱気だった。

これ系の決意は、いつもすぐに挫折して、なかなかうまくいかない。
twitterの「そういうタイプではない」というのは、「時々気合の入った長文なら書けるけど、毎日短文でも続けるとか、そういうタイプではない」というあれだ。

そう、私は、コツコツ続ける習慣化が大の苦手なのだ。

でも、noteを毎日書くのは、やってみたい。
むしろ、苦手だからやってみたいというのが大きいかも。

自信のほどは?と問われると、正直びみょー…むしろ、無理なんじゃないかと思っている…
新年からこんなに弱気でいいのか…???

記事より引用

ここから今日に至るまで、時間がたっぷりある日もそうでない日も、書きたい気分の日もあまり筆の乗らない日も、体調が万全の日も一刻も早く寝たい日も、なんとか書き続けた。

ただ、波はあれど総じて「書いてるな~」という実感を持続できていたのは、たぶんだけれど、当初に決めた2021年の終わりまでだった気がしている。

2021年の年末頃、ひとりの尊敬するnoteクリエイターさんが、毎日の更新をストップすることを宣言した。

これを受けて書いたのが、次のnoteだ。

読み返すと、私はきっとこの頃からnoteの連続更新をどのように終えるのかを意識し始めていた気がする。

もちろん、続けることに意味のあると思うものもある。
続けるか終わるか、迷うことだってあってもいいと思っている。

でも、いくつもいくつも、「もう、終わりにしようかな」と思っていることがあるのだ。
これはもう、なし崩しに続けているだけ。
「続けるメリットはない。でも、やめるデメリットがあるのかも」 そう呟いて向き合ったときに、気づいたことがあった。

続けるか、終わるか。その共通解は、「決める」こと。

記事より引用

なんとか当初の目標であった365日間の連続更新を達成した翌日。

今日のnoteは記録としては「366日目」なのだけれど、これが「367日目」「378日目」への橋渡しなのか、「500日連続」「1000日連続」とかといった明確な何かへの通過点なのか、はたまた「365日」に対してのエピローグなのか…ちゃんと決められないまま、書いている。

ただ、なんだろう。
達成感!とか安堵感!とか、そういったものが、あまり感じられていない。それを感じられるのは、自分でそれを決められたときなんじゃなかろうか…

記事より引用

この時にはまだぼんやりとした「終わり」に向かって、もう少し走ることを決めた。

数字上は、500日。
でも、先にも述べた通り。
正直なところ、「書いてるな~」という実感は、今、持続できていない。

現に、今年に入ってからはFacebookやらTwitterやらに、毎日noteをシェアすることをしなくなっていた。
矢印が完全に自分の方向ばかり向いているものを「読んで読んで」とシェアする気になるわけもなく。

…よし。次の連続目標は、「やめどき」がくるまで!
「今日はもうめんどくさいからいいや」とか「あっ、忘れてた!」とかじゃない、自分で決める「やめどき」まで、noteを書いてみようと思う。

記事より引用

…さて、そろそろ核心に迫るとしよう。
この「やめどき」というやつが来ていると自覚し、それを「ここにしよう」と決めたのが、昨日の出来事だったわけだ。

たまたま、「500」というキリのいい数字でもあった。
この覚えやすさが、数字にピンと来にくい私をいい感じに刺激してくれた…という側面もあったのかもしれない。


もうひとつの側面から。

「書いている」実感が持てなくなってきた背景には、ライフスタイルの変化により優先順位が変わったり、そもそも息長く続けることが不得意なのに「頑張っちゃってる」ことだったり、いろいろなものがある。
その結果、ひとつひとつに愛着を持って書けなくなっているどころか、タスクのようにnoteを扱ってしまう日が続いていた。

これはもう、誰にとってどうなのかは正直どうでもよく(…なので、「そんなことないよ!続いててすごいよ!」みたいなのは、まじでいらない)、私自身がそれを許せるか否かの問題。

これ、短いnoteだけれど、私としてはとても大切にしていることを書いている。

毎日noteを書くなかでひとつこだわっていることを挙げるならば、どんなに短かろうと、どんなにしょうもない内容だろうと、その文章に愛着をもって送り出しているということ。

記事より引用

このひとつさえ守れない状況に、ネガティブにならないわけにはいかなかった。

…これが一時的なものかと言うと、なんとなくだけれど、今回はそうではない気がした。

例えば以前、「noteやめよっかな」と思ったとき。
このときには、結局書くことを選んだ。

「書くこと読むこと」は私の大切なパーツだけれど、それがなくとも、日常は忙しくて、愛おしい。
うまくいかずにあがくのもいいけれど、固執せず、時には目の前の日常に夢中になってもいいんだ。

そう思うと肩の力がスッと抜けて、「書くこと読むこと」をまた楽しめそうな気もしてくる。

記事を引用

たぶん、今私が夢中になるべきことは、目の前の日常であり、日々の仕事であり、そして叶えたいたくさんのあれこれだ。
noteを「毎日書く」ことに唸る時間を、そちらに充てたい。シンプルに。

さて、冒頭にも述べた通り、「書く」ことを手放すつもりはない。

500日書いてきた中でも、気に入っているこのnote。

たぶん、文章を書くことは、存在証明のようなものだった。
定型的でもそうでなくても、事実だろうとフィクションだろうと、文章は「私」が確かにそこにいることを確認する術だったのかもしれない。

(前文略 noteを書く目的は)「点と点をつなぐ作業をする」ことだったりする。

ここで言う「点」って、Twitterの140文字。
それらをつないで「線」を引くと、noteの一記事になる。
そうして無数にひかれた「線」から「面」ができ、やがていびつな多面体になる。

私は、私を証明し、説明するために、書き続けている。
やがて姿を現すであろういびつな多面体の、どこかしらを愛してくれる人を、きっと私も愛するのだと思う。

記事より引用

「書く」ことを、とりわけnoteという媒体で「書く」ことをやめられるほどの何かに達しているとは、到底思えない。
かっこつけて書いちゃった「多面体」とやらの形状は、皆目見当もつかないのだ。

「前に進むための決断だね」

499」より引用

言うなれば、これは「書く」手法の再選択。
「毎日書く」ことを手放し、「書きたいことを書く」ことを手に取る。

少し具体的な話をするなら、勘をにぶらせないためにも週に1度ぐらいは書いていきたいし、Twitterに「点」を集める作業を再開したい。

「毎日書く」こと自体をこれから続けることも、やろうと思えばできる。
それに、正直に言うと、「毎日書いてきた!」ことを止めちゃうことに、名残惜しさがないわけでもない。

でもそれ、本当に望んでいる?私の「書く」は、そういうこと?

その答えは、明白なのだ。

500日目の今日、「前に進むための決断」を下し、公開ボタンを押す。

(「毎日更新」を見守り、応援してくださった皆さま、ありがとうございます!引き続き、よろしくお願いします♪)

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