「毎日書く」ことを手放す、500日目の決断
昨日の意味深なnoteからお察しの方もおられるのだろうか。
2021年1月1日を起点に数え、今日は500日目。
そう、noteを(曲がりなりにも)毎日書いて、500日目になるのだが。
これを、今日をもって手放すことにした。
「毎日書く」ことを、だ。「書く」ことを手放すことはたぶん、生涯ありえない。
◇
思い返せば。
「1日目」の2021年1月1日、1年間の連続更新を宣言したくせに、続けることそのものにむちゃくちゃ弱気だった。
ここから今日に至るまで、時間がたっぷりある日もそうでない日も、書きたい気分の日もあまり筆の乗らない日も、体調が万全の日も一刻も早く寝たい日も、なんとか書き続けた。
ただ、波はあれど総じて「書いてるな~」という実感を持続できていたのは、たぶんだけれど、当初に決めた2021年の終わりまでだった気がしている。
◇
2021年の年末頃、ひとりの尊敬するnoteクリエイターさんが、毎日の更新をストップすることを宣言した。
これを受けて書いたのが、次のnoteだ。
読み返すと、私はきっとこの頃からnoteの連続更新をどのように終えるのかを意識し始めていた気がする。
◇
なんとか当初の目標であった365日間の連続更新を達成した翌日。
この時にはまだぼんやりとした「終わり」に向かって、もう少し走ることを決めた。
数字上は、500日。
でも、先にも述べた通り。
正直なところ、「書いてるな~」という実感は、今、持続できていない。
現に、今年に入ってからはFacebookやらTwitterやらに、毎日noteをシェアすることをしなくなっていた。
矢印が完全に自分の方向ばかり向いているものを「読んで読んで」とシェアする気になるわけもなく。
…さて、そろそろ核心に迫るとしよう。
この「やめどき」というやつが来ていると自覚し、それを「ここにしよう」と決めたのが、昨日の出来事だったわけだ。
たまたま、「500」というキリのいい数字でもあった。
この覚えやすさが、数字にピンと来にくい私をいい感じに刺激してくれた…という側面もあったのかもしれない。
◇
もうひとつの側面から。
「書いている」実感が持てなくなってきた背景には、ライフスタイルの変化により優先順位が変わったり、そもそも息長く続けることが不得意なのに「頑張っちゃってる」ことだったり、いろいろなものがある。
その結果、ひとつひとつに愛着を持って書けなくなっているどころか、タスクのようにnoteを扱ってしまう日が続いていた。
これはもう、誰にとってどうなのかは正直どうでもよく(…なので、「そんなことないよ!続いててすごいよ!」みたいなのは、まじでいらない)、私自身がそれを許せるか否かの問題。
これ、短いnoteだけれど、私としてはとても大切にしていることを書いている。
このひとつさえ守れない状況に、ネガティブにならないわけにはいかなかった。
…これが一時的なものかと言うと、なんとなくだけれど、今回はそうではない気がした。
例えば以前、「noteやめよっかな」と思ったとき。
このときには、結局書くことを選んだ。
たぶん、今私が夢中になるべきことは、目の前の日常であり、日々の仕事であり、そして叶えたいたくさんのあれこれだ。
noteを「毎日書く」ことに唸る時間を、そちらに充てたい。シンプルに。
◇
さて、冒頭にも述べた通り、「書く」ことを手放すつもりはない。
500日書いてきた中でも、気に入っているこのnote。
「書く」ことを、とりわけnoteという媒体で「書く」ことをやめられるほどの何かに達しているとは、到底思えない。
かっこつけて書いちゃった「多面体」とやらの形状は、皆目見当もつかないのだ。
◇
言うなれば、これは「書く」手法の再選択。
「毎日書く」ことを手放し、「書きたいことを書く」ことを手に取る。
少し具体的な話をするなら、勘をにぶらせないためにも週に1度ぐらいは書いていきたいし、Twitterに「点」を集める作業を再開したい。
「毎日書く」こと自体をこれから続けることも、やろうと思えばできる。
それに、正直に言うと、「毎日書いてきた!」ことを止めちゃうことに、名残惜しさがないわけでもない。
でもそれ、本当に望んでいる?私の「書く」は、そういうこと?
その答えは、明白なのだ。
500日目の今日、「前に進むための決断」を下し、公開ボタンを押す。
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