哲学と詩が近づく

最近の体験。

「三体」を読んで、SF小説に興味が起こり「ゲームの王国」を読んでより興味を持ち始めた。アマゾンのお勧め機能の奴隷となって、ミシェル・ウェルベックの「ある島の可能性」を読み、「服従」「セロトニン」「闘争領域の拡大」を読んだ。

その途中でオーディオブックで「世界の哲学者が今考えていること」を聴き始め、マルクス・ガブリエルの「欲望の資本主義」を聴いた。

この中で世界の哲学者の中で服従を引用する箇所があり、マルクス・ガブリエルも出てきた。ミシェル・ウェルベックの作品の中では闘争領域の拡大が1番面白かった。それは作品の中で言われているようにある種の哲学、理屈だったからだ。そしてミシェル・ウェルベックは詩も書いている。

少し前に「中動態の世界」をオーディオブックで聴いた。(殆どの作品の作者や正確な題名は記憶していない)

ここで問われているのは意思の在り方だ、闘争領域の拡大では自己責任が性の分野でもその牙を剥き始めているということだった。現実は美しいものに対して寛容で、醜いものに対して厳しい。若く、美しいものだけ、或いは富を築いたものがそれを超える魅力を発揮できた時にだけ、というよりより発揮せざるを得ない状況になってきているということだが、性の領域で恩恵を得られる。

殆どが性でできている世界で。皆同じような格好をして、違う何かを見ている。自分たちのことは触れられたくない。

そんなことを詩で書いていたら、小説の中に、哲学の中に同じ言葉が出てきた。つまりありきたり、でありつつ、それとはまた別の強固な土台に立った言葉として、詩が表舞台に出てきた。

そして今日2歳の息子が踊りたいというのでアップルミュージックの中からダフトパンクのアルバムを流していたら、元々それは80年代風のムードを出しているのだけれど、結局のところ、この頃と今の世間的な認知としては変わっておらず、快楽の為のファンタジーを肯定しているが、実際はそれはもっと表面的な、みんな嘘だとわかってきているものとして存在している。ユニバーサルスタジオジャパンのように、嘘だという前提で、それを忘れさせる程のクオリティを提供します、といった形の表現が、例えば結婚や葬式、会社、学校、家庭、キャリア、資格、老後などに広がっている。

夢を見ながら歩く街の中で、それを嘘だと自覚しながら、より鮮明な夢を見ようと努力している。

あと少しで何かわかりそうだな、と感じ、それを探っている。


闘争領域の拡大

性にも階級があるということ、女性は以前から知っていた世界。より容赦の無い世界。シンプルで物語というほどの物語もなく、実験的で個人的に好きな大きさ。狂気だけが生き返る道だ、というニュアンスがある。復讐、狂気だけがこの制度から逃れることができる。その時だけは。

セロトニンの中でも狂気に取り憑かれる主人公の姿がある。ミシェル・ウェルベックなら秋葉原の無差別殺人事件の犯人を主人公にした物語が書けるだろう。

中動態の世界

昔は受動でも能動でもない言葉、概念があった。

何故それが無くなったのか、それは責任の所在を明確にする上で邪魔になったからだ。

マルクス・ガブリエルはニューヨークのタイムズスクエアで、自分が世界の中心だと思いたいんだ、誰も望んでここに来ている人はいない、と言っている。誰も望んでいない。能動と受動。

意思の所在。ハンナ・アーレントがいう「仕事」。チェーザレ・パヴェーゼの「生きるという仕事」。

自由意思は拡大していき、富む者は富、貧しい者は貧しくなっていく。美しい者は富、醜い者は貧しくなっていく。孤独に惨めに。


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