見出し画像

美術こぼれ話~フィレンツェとヴェネツィアを分けたもの

 「線」のフィレンツェと「色彩」のヴェネツィア。

 フィレンツェで始まった「ルネサンス」は、イタリア中に広まり、各地の美術に大きな影響を与えた。

 ヴェネツィアにそれが波及したのは15世紀後半と比較的遅く、しかもフィレンツェとは異なる絵画芸術が発展した。

 二つを分けた物は一体何だったのだろう。

 そのキーになっているのは、「フレスコ画」の存在ではないだろうか。

 フレスコ画はヨーロッパで壁画装飾に使われていた絵画技法のひとつで、壁に漆喰を塗り、それがまだ新鮮(フレスコ)な間、つまり生乾きのうちに絵を描く。

 しかし、漆喰が乾くまでの間、という限られた時間で描かなければならないことから、描く際にはきちんと一日あたりの作業量を考えて計画を組む必要がある。

画像1

ミケランジェロ、<最後の審判>、1536~41年

 また、やり直しが効かないのも厄介な点である。

 その代わり、漆喰が乾けば、壁と一体化し、水につけても滲まないので保存性は高い。

 だが、そこに至るまでが長い!

 ミケランジェロの<最後の審判>(13.7×12m)は、完成までに5年のときを費やしている。

 一日の作業量を考えながら、400人もの人物たちを描いていくだけでも気の遠くなりそうな話である。

 しかも本番に取り掛かる前、配置や大きさ、全体のバランスを考えての構成など、膨大な量のデッサンが描かれ、試行錯誤が重ねられたであろうことは想像に難くない。

 思い付きや実験は、あくまで準備段階においてのみ。決定稿は動かさない。

 それらの事を思えば、フィレンツェの画家たちの中には、入念な準備を重ねた上で、かっちりとした構成で描くことは習慣として根付いていただろう。

画像2

 ラファエロ、<アテネの学堂>、1509~10年

 しかし、一方のヴェネツィアでは、湿った気候のために、フレスコ画が根付かなかった。 

 そして1470年代後半には、北方で生まれた新技法・油彩画が、アントネッロ・ダ・メッシーナによってもたらされた。

 他にはない鮮やかで深みのある色彩、そして乾くのが遅いために、重ね塗りやぼかしなど、表現の幅を広げてくれる技法に、ヴェネツィア画壇の大物ベッリーニ一族が飛びついた。

画像3

ジョヴァンニ・ベッリーニ、<牧場の聖母>

 一族の一人ジョヴァンニ・ベッリーニは、この新技法を消化し、磨き上げ、豊かな色彩と柔らかな表現が特徴的な画風を作り上げ、ヴェネツィア派の礎を築く。

 それを受け継いだティツィアーノは、油彩技術をさらに発展させ、厚塗りや粗い筆触を活かした表現を生み出していく。

画像4

ティツィアーノ、<受胎告知>、1562~64年

 厚塗り、荒々しい筆致…これらをもしもフレスコ画などでやれば、最悪「描きかけの壁紙」よりも酷い有様になったかもしれない。

 さらに時期が進むと、ティツィアーノは、なんと自分の指を使って絵の具を直に塗りたくるという、現代アートにも通じるようなことまでやっている。

 彼は90近くまで生きたが、まさに生涯をフルに使って、油彩画表現を磨いた。

 その作品、表現技術はルーベンスやレンブラントなど、次代以降の大物たちにも強い影響を与えた。

 それも、そもそもは修行したヴェネツィアに、フレスコ画が根付かなかったから、とも言えるのではないだろうか。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?