運命が変わる瞬間~カラヴァッジョ、<マタイの召命>
暗い部屋の中、いつも通りに「仕事」を行う。
自分たちの仕事、「徴税人」は人から好かれるものではない。言ってしまえば、支配者であるローマ帝国の「犬」だ。
収入はあるが、嫌われやすい。
それでも、仕事は仕事。誰かがやらずにはすまない、と割り切って、彼らは集めた金を勘定する。
今日もそんな日として終わる、と思っていた。
戸口に、一人の男が立った。光を背にしているからか、顔は黒くて見えない。
その男の手が、外から差し込んできた白い光の中を静かに持ち上がる。部屋の奥へ、徴税人たちが集まるテーブルへと。
「私に、ついて来なさい」
光は、男の指はまっすぐに一人の男を指していた。
マタイにとっては、運命が変わった一瞬、とも言えようか。
徴税人として、人に嫌悪の目を向けられながらも、淡々と過ごす日々から、この世に遣わされた「救世主」の弟子の一人、福音記者の一人へ。行動を共にし、師の死後は、彼の教えを広めるべく旅立ち、そして最後は刺客の手にかかって死ぬ。
この<聖マタイの召命>は、ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の礼拝堂の一つに、彼の最期を描いた<聖マタイの殉教>と向き合うように飾られている。
聖マタイが主題として選ばれたのは、絵の依頼主である枢機卿の名前マシュー(マタイのフランス語形)だったことによる。
運命が変わったのは、マタイだけではない。
この絵は、カラヴァッジョにとって公的な場でのデビュー作だった。当時の彼は25歳(!)。
美術史でも、バロックの扉を開いた、記念碑的作品として言及される。
そして、高校生だった私にも、この<マタイの召命>は、作者カラヴァッジョ(Caravaggio)の名前を、鮮烈に焼き付けたのである。
留学先のヴェネツィアで、明暗のコントラストが特徴的なティントレットに興味を持ったのも、大学院に進学した際、カラヴァッジョを研究対象として選んだのも、この時の経験がきっと根っこにあるのだろう。
そして、その後、ライターとして活動できるきっかけを掴んだ私が、二件目の仕事に手掛けたのは、当時国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」の展覧会レポート(下)だった。
「凶暴」、「光と影の画家」、と語られやすいカラヴァッジョだが、展覧会を通してみたことで、また見方が変った。
カラヴァッジョの光の使い方、劇的な表現、主題、写実性…あらゆる要素は他の画家たちによって取り入れられ、ヨーロッパ中に伝播した。
たった一人で、ヨーロッパ美術に革新を引き起こしたのである。
こんなに大きい人だったのか…。
会場を出た後も、私はその事実にしばし打ちのめされていた。
たかが2,3年向き合ったところで理解した、と思うのはおこがましい。
カラヴァッジョは、実際に殺人を犯したエピソードなどから、凶暴性が強調されやすい。だが、それだけの人ではない。彼なりに制作に対してモットーを持ち、妥協せず、真摯に向き合える人でもあった。
ギリシア・ローマの古代の彫刻ではなく、ローマにたむろする汚いジプシーや娼婦などの人々の姿を、美化することなく描き出した。
そのようにしてできた作品は、「品位に欠ける」として、パトロンの眉をひそめさせ、受け取りを拒否されたこともあった。
だが、彼は一々人の顔色を窺わずに、信じた道を貫いた。
自分の技量と美学に、「傲慢」とも言えるほどの自信と信念を持っていたからだ。しかし、それはしばしばトラブルを呼び込み、それが重なるごとにカラヴァッジョも荒れていった。
何と不器用で、生きにくい人だろう。
だが、そんな彼だからこそ、同時代の画家たちを、そして数百年隔てた時代に生きる私たちを惹きつけてやまないのだろう。
たとえるなら、彼は強烈な光を放つ「太陽」だろうか。その光は、烈しすぎて、時に人を火傷させずにはおかない。
そして、その危険があるとわかっていても、人は彼に惹かれずにはいられない。
今年もカラヴァッジョ展が巡回する。
東京を素通りしていくのが不満だったが、「大物の展覧会なら、東京で開催されて当然」という傲慢な思い込みがあったのは否定できない。
これからは、私の方から絵を、展覧会を、追いかけて行こう。
今年の後半は、私からカラヴァッジョに会いに行こう。
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