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琳派について

 琳派の面白いところ、そして最大の特徴は、「直接的な師弟関係でつながっているわけではない」という事だろう。

 たとえば、<風神雷神>屏風で名高い宗達と、琳派の名前の由来にもなった尾形光琳との間には約百年の開きがある。

 光琳とその次の酒井抱一の間も同じくらい、そしてさらに京都と江戸、という場所の違いも出てくる。

 狩野派など、師弟関係がきっちりしている派閥だと、「これが伝統(テキスト)」だから、「こうすべき」などと、伝統から外れることを嫌う傾向が強いし、師匠からの口出しに縛られやすい。

 が、琳派はその「縛り」から自由だ。

 直接面識のない相手の作品を見て、「良い」と感じ、憧れ、真似てみる。その中で、自分なりのアレンジを加えながら、徐々に自分ならではの表現、モチーフを獲得していく。

 琳派の絵師たちは、生まれ育った時代も、育った場所の空気も、異なる。

 どのような環境で、生活の中にあったどのような要素を養分として摂取していったのか。

 たとえば、光琳の場合。

 彼は、京都の裕福な商家(呉服屋)の次男坊。家業を継ぐ必要のない気楽な立場もあって、趣味に没頭する日々を送ってきた。(この生活習慣が、しみついてしまったのが、良くも悪くも光琳を後世に残る絵師にしたのではないだろうか?)

 彼の趣味の一つは、能楽。これは絵師として活動するにあたって、社交ツールにもなった。

 そして、もう一つ大切な要素は、「呉服(着物)」。

 彼の実家・雁金屋は、後水尾天皇の中宮・和子からの注文を大量に受けていた。

 美しく、華やかな着物は幼いころから彼の身近に当たり前のようにあり、それが彼の美的センス、イメージのストックを豊かなものにした。

 あの<杜若図屏風>で、花を描くのに使われている「型染め」は、もともとは着物に使われる技法だった。

 他にも、小袖の絵付けもしているし、東山で名士夫人たちによる衣裳比べが行われた時には、知人でもあった役人・中村内蔵助の妻のためにアドバイスをしている。

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 その光琳が尊敬し、私淑していた宗達の生涯については詳しいことはわかっていない。

 京の町の「絵屋」で、絵付けした扇が評判だったことが当時の記録に残っている。

 そんな彼が、手掛けた仕事の一つが「平家納経」の修復。

 平安末期、王朝時代の工芸の粋を凝らした作品も、数百年経てば、さすがに傷んでくる。それをできるだけ元通りに修復する…というのは簡単ではあるまい。

 彼が苦心する様子は、柳広司さんの『風神雷神』にも書かれていた。

 もともとの絵を損なわないように、かといって、はなからオリジナルなものを描くのはNG。

 そのような制約の中で、格闘するのは、苦労も大きかったが、一方で彼の糧になったのではないだろうか。

「一体何が、どのように描かれていたのか」

 少ない手掛かりをもとに頭をひねり、想像を膨らませる。その作業を通して、彼は王朝時代の「工芸美」に、近づいて行ったのだろう。そして、肌で感じたはずだ。

「こういう表現があったのか」と。

 それは彼の中にストックされ、モチーフのバリエーション、表現の幅を広げてくれただろう。

 この「ストック」があったからこそ、アレンジしていくことができた。

 「現在」の「当たり前」とは違うもの、今となっては忘れられてしまった「古いもの」の中にこそ、意外と新しいことへのヒントが隠れている。

 そして、同じ種でも、環境や育て方によって、違う花が開く事はよくある。

 琳派の絵師たちは、先人たちをただ真似たのではない。

 先人の図像を写しながらも、時に「自分ならこうする」という主張を抑えず、少しずつでも出していった。

 かっちりとした師弟関係だったなら、こうはいかなかっただろう。

「自分なら」という自己主張、そして主張できるだけの「自分」を、芯を大切にすること、それが琳派の共通項の一つであり、現代でも人の心に響くものがある理由とも言えるのではないだろうか。

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