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自分、なにも、ない。

私にはことごとく何もない。何かに特化して続けてきたわけでもない、地方や都市に拠点があるわけでもない、海外に行ったことがあるわけでもない。

そんなことを考えるたびにへこむ。ないものを思ってへこむなんて、いつまでも人と比べて生きているなんて、と思いまたへこむ。繰り返して繰り返して、底なし沼に嵌る。

居場所がほしいと思う。居場所をつくりたいと思う。寂しいわけではない。求められたいのか、認められたいのか、選ばれたいのか、そのぜんぶなのか、そんな気がして胸が苦しくなる。

「愛おしい」という感情をもっていたいのに、1人の力ではどうにもならない。「ありのままを表現」していたいのに、自信がないだとか、どうせ自分なんて、という気持ちによって出鼻をくじかれる。これが、すごく悔しい。

どうしようもない不安に襲われる。それでも助けてと言えなくて、ひとりで泣く。頼ってほしい、という言葉に、また泣く。

美しさを感じる。太陽のしなやかさ、雨の静けさ、澄んだ空気、温かいコーヒー、飾られた絵画、拙い文章、そのひとつひとつに美しさを感じる。感じるのに、それは私を介してでなきゃ表現されない。私の語彙の少なさ。美しいものを、美しいとしか言えない私。悔しい、となる。


ある日、「ことばを綴るのが好きなはずなのに、なんだか怖くなった」とつぶやいた。本心だった。数分後、「怖いのも悲しいのも楽しいのも嬉しいのも、ぜんぶほんとうだから溢れている、だから美しいよ。大丈夫だよ」とメッセージが来た。嬉しくて涙がでた。


感情が、感性が溢れるから表現をする。それは私を介してしか表現されないかもしれないけれど、どのタイミングで、どの出来事に対してどんな感情になるのかは、私にしか選べないことであって、私にしかない表現であって。

それが、とても嬉しいと思った。
それは、私だけではなくて、世の中にはそんな表現が溢れていることに気づいた。インスタ、ツイッター、本、絵画、そんな表現を私は見ていたい。拙く儚く美しいものが好き。私もそんな表現をしていたい。


ちゃんと、在る。私には、表現が、あったと気づいた。

いつでもいくつになっても、忘れる。今あるもの、大切な人、もっているものをすぐに忘れる。それでも、表現を通して何回でも思い出す。表現をすることで美しさに気づく。そんな生活を続けて行きたい。

いつか、インスタもツイッターもやめて、ブログだけでエッセイや詩を発信する生活がしたい、と密かに思っている。私は言葉で、表現で、発信をしていきたい。

人と比べるまでもなく、私から溢れるもので表現をしていたい。


これが私の、在るかたち。





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ほろ酔い文学

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