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「境界線上」をひとつの世界にするために | アプリ「New Monaural」との出会いから考えたこと

この世界にはたくさんの「境界線上」がある、といつも思っている。この感覚について説明するのは何だか難しいのだけれど、簡単に表すとたとえば、「黒でも白でもなくて、グレー」みたいなこと。あるいは、「どっちでもあるし、どっちでもない」みたいなこと。そして、そういう事柄が自分自身を説明する要素にならざるをえないとき、そのひとの存在ごと「境界線上」に押しやられてしまったりする。そのどこにも行けなさを解消して、自由に歩き回れる「ひとつの世界」にするには、どうしたらいいんだろう。片耳難聴という境界線上をひとつ持っている私が、そんなことをのんびりと考えてみました。

「note編集部のお気に入り記事」を読んでいたら、素敵な記事に出会った。

主に一側性難聴のひとをターゲットにしたモノラルミュージックプレーヤーアプリ「New Monaural」がリリースされた背景について、開発された方ご自身の一側性難聴者としての体験や思いも込めて綴られていた。何だか夢中になって読み進めた。

このタイトルに吸い寄せられた理由でもあるのだけれど、私は生まれつき右耳が聞こえない片耳難聴だ。だから、健聴(という言い方はあまり好きではないのだけれど、便宜上)の方がこの記事を読んだ場合と、ちょっと感じ方が違うかもしれない。あくまでひとりの片耳難聴者として読んで、私の中にあったのは、共感嬉しさのふたつのことだった。

まずは本当に、一側性難聴、片耳難聴というものを連れている日常、そこに生まれる意識についてひたすらに共感した。iPhoneのモノラルオーディオの機能を使う気になれない気持ち、「アジャスト」の日々。そして何よりも、うまくいかなかったことは「静かに受け入れる」、その感じ。そうそう、そうなんです、と思った。ひとと話し言葉でコミュニケーションをとるとき、絶対に離れてくれない静かな諦めは、私のひとへの態度そのものに浸食している気がするほどだ。たとえば。

聞こえない側から話しかけられて、聞こえないので聞き返す。相手はもう一度言ってくれるのだけど、やっぱり聞き取れない。3回目もトライして、こりゃだめだ、と思って、どうしようもないので何となく笑ってみる。その一瞬に、相手の顔には「え、笑って終わり?」みたいな戸惑いの表情が浮かぶ。でも、何も言われない。その曖昧な笑いが合っていたのか間違っていたのかも分からないから、こちらも何も言わない。会話は、そこで終わる。聞こえないので逆から話しかけてください、と普通に言えばいい話なのだけれど、なんというか、そういうわけにもいかないのだ。

こんなもやもやを、ほとんど毎日繰り返している。出来事だけ見れば、会話がひとつできなかった、ということにすぎないのだけれど、そこには何かもっと切実な虚しさがあるのだ。つながりの糸が、ひとより1本減る。ひとと話せば話すほどに、減ってゆく。それはもう、どうしようもない。冬へ向かう木から、葉っぱが一枚一枚落ちていく感覚と似ているかもしれない。離れる葉を、木は枝を伸ばして捕まえたりはしないし、そんなことそもそもできない。黙って見送ることしかできないから淡々とそうしてそこにいるけれど、ただひとつ確かなのは、離れて地面に落ちた葉にはもう二度と会えない、ということだったりする。

そんな静かな諦めはたぶん、片耳難聴というものが現時点で「境界線上」にあるからこそ起きるのではないか、と思う。聞こえる/聞こえない の、このスラッシュの上にいるからこそ、そこにはことばがない。表すなら、聞こえるし聞こえない、ということになるのだけれど、そこに含まれる複雑なあれこれを文章にして説明する時間が許されるほど、世の中は悠長ではない。だからもう私なんかは、その静かな諦めをどうにかすること自体、諦めてしまっているところがあった。

だけど、この「New Monaural」は違った。

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「ステレオの楽曲をヘッドフォンの片側だけで聴いたとき、一般的なモノラルとは違うサウンドで音楽が楽しめるようにデザインされたもの」、という説明を読んで、どういうことなんだろう、と正直よく分からなかった。というか実は、ステレオかモノラルかということをあまり気にしたことがなかった。もちろん、ステレオを片耳で聞くと本来のステレオではないことは知っていた。けれど、だからどうしようとも思わなかった。コミュニケーションにおける静かな諦めと一緒だ。聞こえる世界の端っこが欠けた日常を、受け入れる習慣がついていた。

よく分からないけれど面白そうだったので、noteを読んだあとすぐにダウンロードしてみた。まず、最初のサンプル音源を聞いて、ああなるほどな、と思った。確かに違う。そうして何曲か自分のライブラリにある音楽を聴いて、STEREOとNEW MONOとMONOを切り替えながら遊んでいるうちに、じわじわと感動が滲み出てきたのだった。

モノラルは明らかに、2つのものを1つに束ねくくったような感じがする。がしゃがしゃとしていて、ずっと聞いていると疲れてしまう感じだ。対して、私がずっと聞いていたステレオは、決して悪くはない。悪くはないけれど、このアプリで体験できるNEW MONOと比べると、その差は歴然としていた。NEW MONOのほうが立体感がある、というと月並みな表現になってしまうのだけれど、本当に「立体感」なのだ。脈絡がないが、以前クロード・モネの「印象・日の出」の実物を美術館で観たときの感覚を思い出した。あれも「立体感」だった。筆触やキャンバスの地、そしてあの光。図録のカラーコピーを観てももちろん絵の素晴らしさは分かる。でも、実物を観るとやはりそれは、平たく印刷された別のものでしかない。NEW MONOで聞いた音楽は、そんな感動を与えてくれたのだった。何だかそれが、とても嬉しかった

その嬉しさは、知らなかった世界がひとつ、自分の中に開けた嬉しさだった。知らなかった世界とはすなわち、片耳難聴者の世界だった。ずっと境界線上だったその場所、住むこともできず、誰に説明することばもないその場所が、NEW MONOの音楽を楽しめるというただその一点で、私の中で「ひとつの世界」になった。あまりに直感的で自分でも戸惑った、でも、現にこのnoteを書いているということは、そこに片耳難聴者のことばが生まれたということでもあるのだ。

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「境界線上」がひとつの世界になったとき、そこにあったものは何だろう、ということを考えた。

NEW MONOの音楽を楽しめるということ、それは何となく、片耳難聴が社会に広く認知されるとか、片耳難聴者への制度的な支援が整備されるとか、そういうこととは別の嬉しさだった。何ていうんだろう、「片耳難聴が世の中に受け入れられるからここにいられます、ありがとう」じゃなくて、「えっ、私はじめっからここにいましたけど、あはは」みたいな、ちょっとお茶目で不真面目な図々しさがあった。失礼だとか言われるかもしれないけれど、でもその図々しさは、自分の尊厳を守ることとも繋がる図々しさでもあった。ひとに空けてもらった居場所じゃない、誰のものでもなかった土地に自分で、自分の名前の書かれた杭を打ち込んだみたいな、そういう清々しさだった。その「自分で」というのも、この「New Monaural」を開発された方が当事者(という言葉も安易に使いたくないけれど、便宜上)かどうかということに依る「自分で」ではない。もしこれが、心ある「聞こえる」人によって作られたものだったとしても、私は同じ感覚を抱いただろう。なぜかといえば、杭を打ち込んだその槌は、NEW MONOを「楽しむ」という行為そのものにほかならないからだ。

困難を克服することと、楽しむということは違う。何となく、同じ1を足すのでも、マイナスをゼロにすることと、ゼロをプラスにすることが違うのと似ている。ステレオをモノラルにする、というのは困難を克服する手段でしかなかった。それが、より上質な音を聴くという楽しみであったからこそ、それは前者がもつような静かな諦めのないものになったのだと感じる。

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そして、これが適用される「境界線上」は、では一体誰のことを指しているのかということに、少しだけ触れたいと思う。

冒頭で、この世界にはたくさんの「境界線上」がある、と言った。途中で、聞こえる/聞こえない のスラッシュが境界線上だとも述べた。だけど本当は、そんな「本当は」が論理上許されるか分からないけれど本当は、みんな何かしらの境界線上にいるのだと私は思っている。それはもう、たとえば、男/女 のスラッシュ、なんていう単純な次元じゃない、もっともっと複雑で入り組んだ境界線上だ。今のこの世界はとにかく「一概には言えない」ことで溢れ返っていて、過去のご先祖様たちが作った枠組み、あるいはそれに倣って現代の私たちが作っている枠組みでは、その溢れ返ったひとつひとつを、とてもじゃないけれど囲い切れない。零れてしまったその何かは結局、ひともいえもことばもない境界線上に追いやられて、その追いやられている事実さえ隣人に伝えられないまま、どこにも行けずに立ち尽くしている。そのどこにも行けなさは、苦しい。苦しいから、その境界線上が隔てている(と思われる)既存の世界のどれか、どちらかに、言い方は悪いけれど「頭を下げて」、居場所をもらおうとしてみる。だけど、本来境界線上に立つことになった理由そのもの、〈ほんとうのこと〉は、それでは、守られない。

私が守りたいといつも思っているものはそういうことで、実際「New Monaural」によって守られたのは、そういうことだった。もちろん、だから境界線上で苦しむのが大切だ、と言いたいのではない。そうではなくて、今自分のいる境界線上がひとつの世界になる可能性に思いを馳せること、そのときだけはもう、綺麗ごとでも飾りごとでもいい。それを自分の力で、あるいは似たような境界線上にいる誰かと一緒に、実現してみようと思ってみること、それだけで、「どこにも行けない」が「ここにいたい」に、変わるかもしれない。「New Monaural」で星野源の"アイデア"を繰り返し再生しながら、そんなことを考えていた。

そして私にとってはその力が、ことば、だったりした。

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