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まだない記憶を思い出して泣くな

たった数週間の忙しさに、あっけなく体調と情緒の舵をとられた。忙しくなり始めた数日後にひいた風邪はぐずぐずと治らず、眠さで頭のすみっこがずっと重たくて、行き帰りの電車の中はケータイを触る気力もなくぼーっとしていた。からだがしんどいと自ずとこころもしんどくなってきて、突然わけもなく涙が流れていて驚くことが増えていた。一方で、そんなふうになっているのは周りを見渡してみても自分ひとりだけで、そのことにもただただ焦りが募った。自分だけおかしい、ということは分かっていて、だけど何をどうしたらいいのか問題の端っこが分からなくて、どんどん自己嫌悪だけが大きくなった。いま少し冷静に考えてみれば、そうして自分を嫌っておくことで、何かが赦されるような気がしていたのかもしれない。本当はそんなことあるはずもなくて、不意に滲み出す涙には必ず「わけ」があるはずで、その「わけ」をきちんと自分で取り出してみればよかったはなしなのだけれど、なぜだろう、何かぐるぐるしたものの只中にいるあいだはそれがどうしても、できなかった。

・・・

いろいろあるけど、その「わけ」にあたるもの、要するに私の慢性的な不安のいちばんの根っこは「自分の存在の信じられなさ」とでも呼ぶべきものだ。それはいまに始まったものではなく、もう長いことずっと、連れて歩いてきている。普段はやり過ごすことができていても、余裕がなくなったり、うまくいかないことが多くなると、たちまちそれが首をもたげて、ぐらぐらと足場を揺らす。私は生きていていい、という存在の足場、私は何者かである、という価値の足場、私は世界と繋がっている、という共同の足場。どれも当たり前に確かであるように思えて、私のばあいとても脆く、いつでも簡単に崩れ出してしまえる。不思議と。

へんな話をするようだけれど、ひとは誰でも「わたし」の足場を持っているように思う。そしてそれは、「わたし」の真下にずっと同一で在るものではなくて、喩えるならクライミングウォールにちりばめられたホールドのように、たくさんある中からそのときどきで選び出して踏む、選択肢そのもののような気がしている。だから「わたし」は進んでゆけるし、変わってゆけるし、別の誰かと交わっていくこともできるのだ。

足場が崩れ出すということはつまり、「わたし」の存在や価値や誰かとの共同を一切選べなくなるということを意味する。すべてが内側に閉じていって、閉じた先にいる自分さえ正体がよく分からなくて、この清々しいくらい底抜けの不確かさで、果たしてどうやって、誰かと、世界と、未来と、渡り合ってゆけるのだろうかと、そんな問いだけがからだに残る。何をもってことばを紡いで、何にゆるされて笑って、何を正しさにして誰かへ応えてゆけばよいのか。その「何」を知るための手がかりさえ持たず、そこを埋めるべきものを自分は持ち合わせていないという事実だけに淡々と直面しながら、閉じ込められた「いま、ここ」を踏みしめることしかできない。

「いま、ここ」に留まることしかできず、未来が今日この場所からなにひとつ変わらないという思考回路は、これから起こることを想像と結び付けて決定してしまう。頭の中で思い描いた光景が、想像ではなくまるで本当に起こること、さらに言えばもうすでに起こったことのように感じられるのだ。往々にして、それは暗く淀んだ光景であることが多く、一度そのフィルターがかかってしまうと、もとの純粋な世界の見え方がどんなだったかを、あっさりと忘れてしまう。

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会社の最寄り駅から歩いているとまた喉の奥がじーんとなって、そのときばっかりは自分でも、なんでだよ、と苦笑交じりに思った。今、自分は何を考えてたっけ、と頭の中を巻き戻してみると、浮かんだのはその、「まだない記憶」なのだった。また怒られるかも、またミスするかも、また分からないかも、また終わらないかも…。不安に駆り立てられた想像がからだに染み付きすぎて、まるでもうそれを体験したかのような錯覚に陥っていて。私はその「まだない記憶」をばか丁寧に思い出して、泣きそうになっていたのだった。

気づいたとき思わず、いやそれは、空回ってるよ、と思った。

立ち寄ったコンビニから出て、信号が変わるのを待ちながらケータイを取り出して、咄嗟に頭に浮かんで打ったことばが、タイトルの「まだない記憶を思い出して泣くな。」だった。

自分のことばだけれど、そのひとことは不思議と、滲んだ涙を吸った。そんなに不安がらなくていいよ、とか、大丈夫だよ、とか、いやちょっと考えすぎなんじゃない、とか、いろんな意味を含んでできた一文は、とても力強かった。まだない記憶を思い出して泣くな。濃い霧の向こうに沈んでいた「わたし」の足場も、ゆっくりとまた、見え出した気がした。まだ、未来は、自分の想像の外に、あるよ。未来があるということを、まるで子どもみたいに、嬉しく思った。

青信号を歩き出す足取りは正直言ってまだ重たかったけれど、それでもなんとか、大丈夫だ、と思えた。まだない記憶を思い出して泣くな。あれから何度も、胸の中で反芻しては、次の一歩の置き場所を探している。


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