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やさしさのリレー

4月になって就職や転職、引っ越しをした友人が何人もいる。慣れない環境でがんばる友人たちの話を聞いていると

「忙しいのに時間作ってくれてありがとう」

と言われ、思わず

「話せて楽しかったよ。それに困ったときはお互い様!」

と答えてはっとした。数年前に出会った一人の女性の事を思い出したからだ。

約4年前、私たち家族は東京都内で引っ越しをした。片道2時間以上かけて通勤している夫の体調を見かねて決めたことだ。たくさんの人が大急ぎで行き交う新宿・東京駅で乗り換えのある通勤は、緊張感でいっぱいだったと思う。新たな場所で人間関係や生活環境を作り直すには、大きな心のエネルギーが必要になることは予想できた。それでも夫の貴重な40代の時間と心を通勤ですり減らすのはもったいないと思ったのが、決断の大きな決め手だ。家が決まり、近くで快く手伝ってくれる方とも出会えた。
荷造りを進めながら、新しい家周辺の歩行訓練をお願いし、仕事にも通った。歩行訓練とは、白杖を使って目的地まで行けるように、道の凹凸や杖で触れる目印になるもの、音やにおいという視覚以外の情報を「歩行訓練士」というプロの方に教えてもらうものだ。見えていれば行き帰りに大きな違いはないかもしれないが、視覚以外の情報を元に歩くと、頭にインプットするものが変わり別の道のようになることも多い。通常、目的地を一つ決めて、行き帰りをそれぞれ練習する。訓練士さんからOKが出たら次の目的地の練習を始める。でも、引っ越しの日程が差し迫っていること、新しい家で生活を始めないといけないことから、いくつもの目的地を並行して憶えていった。新たに生活環境を作るのだから、憶える場所があまりに多かった。最寄り駅のホームから改札を探し、バスに一駅乗って、バス停から自宅まで歩く。近くのスーパーと子供の学校、駅周辺の店を少し。さらに通勤ルートも新たに憶えることになる。あまりの多さに道を憶えることが得意な私も疲労困憊だった。幸い快く同行してくださる方がいたものの、一人で出かけないといけないことも多く心が折れそうになっていた。これまで通り暮らしていたらこんなストレスもなかったのかと何度も考えた。

その日、私は駅から飲食店が並ぶ場所へと向かっていた。お昼を食べてから、役所に同行してもらうことになっていたからだ。訓練士さんと一緒にざっと歩いたときに教えてもらったお店を探して歩く。自動ドアの開閉音、聞こえる人の話し声、流れ出てくる料理のにおいを頼りに歩いていた。歩幅も小さく不安げな表情だったはずだ。自転車を押しながら近づいてきた女性が声をかけてくれた。

「どこに行かれますか?」
「すみません。この辺りになか卯ありましたよね?」
「あー!ありますよ。すぐそこです。よかったらご一緒しましょうか」

優しい女性の声と言葉にほっとしてお願いした。自転車を押している女性の腕を持たせてもらい、歩くこと数メートル。

「ありがとうございます。慣れてないので助かりました」
「いえいえ。困ったときはお互い様ですから」

お礼を言った私にそう言って爽やかに去って行った。しばらくさっきの言葉を頭の中で繰り返していた。

「困ったときはお互い様ですから」

どんな思いでこの言葉を言ったのだろう。私にも誰かのためにできることがあるかもしれないと思ったら、縮こまっていた心がふっと軽くなった。生活環境が大きく変わった私は、少し外を出歩くだけでも見えないことに疲れていた。できることが一気に少なくなったような気がして、心細さでいっぱいだった。

その女性が言った「お互い様」という言葉の意味を今改めて考えている。あのとき声をかけてくれた女性を私が直接助けることはできない。でも、その女性からもらった温かさを、私の周りの大切な人のために使うことはできる。新生活を始めた友人たちに「お互い様」を送りたい。周りの誰かを思いやれる優しさが循環していけば、助けてもらうことが多い私も誰かの力になれる。心に余裕がなかったあのとき、声をかけてくれた女性から貰ったものを憶えておきたい。

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