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【山梨県立文学館】特設展「文学はおいしい」を見に行く

はじめに

 山梨県立文学館では、特設展「文学はおいしい」(2024.7.13~8.25)を開催しています。
 例年夏のは幅広い年代で楽しめる展示が行われています。今年はゆかりの作家や著名な作家の文学作品の中で扱われた山梨の食や食の場面について紹介する内容です。

山梨県立文学館
サインボード

文学はおいしい

 「文学のなかのおいしいシーン」ということで、原稿(複製含む)や直筆の色紙などからとくに食に関する内容を紹介しています。
 およそ20人の作家・文化人を取り上げ、90点の資料から「食」に対する作家らのこだわりが見て取れます。

「文学はおいしい」
一部資料の紹介と関連イベント

 最近各地で見かけるようになった文化庁の「登録博物館」の証がありました。既に登録されている博物館用のもので、新しい博物館法では令和10年までに再登録が必要で、登録完了すると名前入りの豪華プレートが進呈されるようです。

文化庁の「登録博物館」の証

 今回も撮影は一切禁止されているため、資料画像は、チラシ等にて公開されているもののほか、山梨県立文学館、山梨県立図書館のサイトから出典を明示して使用しています。使用できる画像が少なく、文章が多い構成となってしまいましたがご容赦ください。

展示室へ向かう階段にイメージビジュアルが浮かぶ
展示室は撮影不可

第1章 やまなし・葡萄のめぐみ

 まず、山梨と聞いてすぐに思い浮かぶ食べ物は葡萄ではないでしょうか。
 芥川龍之介は山梨の葡萄を紫の色と甘い汁を褒め、与謝野晶子は甲府盆地に広がる葡萄畑の眺めに魅せられ歌を残したといいます。こうした葡萄にまつわる作品を見ていきます。

 まず、江戸時代の地誌や戯曲などに描かれた葡萄をパネル展示にて紹介しています。

◇パネル展示「甲斐八珍果」
 山梨の代表的な果物を総称した言葉として「甲斐八珍果」が知られています。八珍果は、葡萄・梨・桃・柿・栗・林檎・石榴・胡桃(または銀杏)です。
 江戸時代後期の儒学者大森快庵おおもりかいあん(1797年~1849年)が著した地誌「甲斐叢記かいそうき」1851年(嘉永4年)の中で「峡中(甲斐)八珍果」として記録されています。

大森快庵「甲斐叢記」峡中八珍果
出展 : 山梨県立図書館HP

◇パネル展示「甲斐名所寿古六」
 また、歌川国芳らが描いた甲斐名所を描いた双六には、「勝沼の里」として葡萄が描かれています。

歌川国芳「甲斐名所寿古六」部分
出典 : 山梨デジタルアーカイブ

◇パネル展示 「身延参詣甲州道中膝栗毛」甲州街道勝沼宿の場面 
 仮名垣魯文かなぎろぶん作、一光斎芳盛いっこうさいよしもり画による道中記「身延参詣甲州道中膝栗毛」1857年(安政4年)では、身延参詣に向かう途中、勝沼宿の葡萄棚の下で休憩をとる弥次郎兵衛と北八に対して葡萄を売ろうとする女性のやりとりが描かれています。

仮名垣魯文「身延参詣甲州道中膝栗毛」1857年
出典 : 山梨県立図書館

 続いて目に入るのは、山梨市出身の作家林真理子(1954年~、昭和29年~)の出世作「葡萄が目にしみる」の草稿です。

◇林真理子「葡萄が目にしみる」草稿
 葡萄農家の娘の青春を描きます。冒頭主人公がジベレリン処理(タネなしにするため成熟前の葡萄の房を薬剤にひたす)を手伝うシーンから始まります。

 続いて、山梨出身の推理小説家の木々高太郎(1897年~1969年、明治30年~昭和44年)と仏文学者で随筆家の青柳瑞穂(1899年~1971年、明治32年~昭和46年)の原稿があります。

◇木々高太郎「葡萄」原稿
◇木々高太郎「葡萄」切り抜き(「新青年」1942年10月)
 小説「葡萄」の内容は、北方の国境で軍医の主人公は捕虜コーリャが日本語を理解するか探っており、「甲州葡萄」のラベルの箱を見たコーリャが発した言葉が鍵になるというもので、医師でもあった木々高太郎らしい作品です。

◇青柳瑞穂「枇杷と桜桃」原稿『ささやかな日本発掘』収録
 「枇杷と桜桃」は、住んでいる東京の家の枇杷と柘榴とあけび、山梨の実家にあった桜桃など果樹にまつわる随想を書いた作品です。

 続いて、芥川龍之介の書簡があります。芥川が甲州葡萄に魅了されたことが分かる資料です。

◇芥川龍之介 山本喜誉司きよし宛書簡 1910年(明治43年)10月14日(推定)
 この書簡は、第一高等学校1年の秋、山梨で行われた行軍演習を終え、友人の山本へ宛てた手紙です。 山本は中学校時代の親友で、後に山本の姪の文と芥川は結婚しています。
 追伸として「甲州葡萄の食ひあきを致し候 あの濃き紫に白き粉のふける色と甘き甘き汁の滴りとは僕をして大に甲斐を愛せしめ候」とを記しています。

芥川龍之介 山本喜誉司宛書簡
出典 : 山梨県立文学館公式X
芥川龍之介 山本喜誉司宛書簡(末尾部分)
出典 :  山梨県立文学館HP


 続いて、与謝野晶子の額装、短冊、色紙です。
 「葡萄之図」は、1933年(昭和8年)に鉄幹と晶子夫妻は山梨を来訪しており、勝沼の葡萄園を訪ねて葡萄棚の下からの景色を詠んだ歌です。

◇石井柏亭「葡萄之図」与謝野鉄寛・与謝野晶子賛
「葡萄より甲斐の山見るむらさきの岩の洞にて海を見るごと 晶子」軸装
◇与謝野晶子「むら山に雲ゐて三日の川の鳴りわれは塵なき葡萄畑ゆく」短冊
◇与謝野晶子「甲斐の秋錦のきれのおかれたる葡萄の畑とこし山の青」色紙

 さらに、作家と葡萄に関わる資料が続きます。

◇窪田空穂「峡川の笛吹かはを越え来ればこの高はらはみな葡萄なる」軸装
 国文学者の窪田空穂くぼた うつぼ(1877年~1967年、明治10年~昭和42年)の軸装です。笛吹川が登場します。

◇田中冬二「渡り鳥」草稿
 田中冬二ふゆじ(1894年~1980年、明治27年~昭和55年)は、銀行員として全国各地に勤務しながら詩作を続けました。
 1942年~44年(昭和17年~19年)まで、長野(諏訪)に勤務しており田中にとって山梨は長野とともに「好きな県」であり、富士北麓や奈良田、甲府、勝沼などを訪れ、詩や随筆を書いています。

◇曽根崎保太郎「ミューズの乳を祝福しバッカスの歌を讃めて葡萄を選ぶ」色紙
 こちらは、勝沼(当時は祝村)の農家に生まれた詩人曽根崎保太郎(1914年~1997年、大正3年~平成9年)の色紙です。

◇檀一雄「葡萄二皿」水彩画 
 料理好きで知られた作家檀一雄(1912年~1976年、明治45年~昭和51年)は都留市の生まれです。「葡萄二皿」は食卓に置かれた葡萄をのせた皿を描いています。

◇小川国夫「私は葡萄の木だ枯れない葡萄の幹だ」色紙
 作家小川国夫(1927年~2008年、昭和2年~平成20年)の色紙です。カトリックだったといいますから「葡萄の木」は聖書の一説の意味も含むのでしょうか。

第2章 甲州のうまいもの

 続いても甲州のうまいものが登場します。なかでも「ほうとう」懐かしい故郷の味です。作家たちもそれぞれに思い出の「ほうとう」の味を書き残しています。また、俳人飯田龍太が井伏鱒二らに贈ったヤマメのエピソードも登場します。

 笛吹市境川町で親子二代に渡り活躍した俳人飯田蛇笏だこつ(1885年~1962年、明治18年~昭和37年)、龍太(1920年~2007年、大正9年~平成19年)に関する資料です。山蘆と称した居宅では俳諧が行われたり、文人仲間が泊りに来ていました。

◇小川千甕「甲州紀行画巻」
 日本画家の小川千甕せんよう(1882年~1971年、明治15年~昭和46年)は、1928年(昭和23年)11月5日から8日に飯田蛇笏を訪ね、その時の様子を描いた絵巻です。
 7日に昇仙峡でそばを食べ、夜歓句会で葡萄と柿を食べる様子が描かれています。

◇飯田龍太「梅漬けの種が真赤ぞ甲斐の冬」額装
◇飯田龍太「ほうとう」原稿
◇飯田龍太「ほうとう 郷愁の味」校正刷り
 飯田龍太の句の額装のほかに、「ほうとう」についての随想です。味噌による味付けが家庭により違うことを語っています。作った翌日のほうがが味わい深いことは「ほうとう」を知る人ならば皆うなづくような内容にも触れています。
 校正刷りは「日清製粉八十周年記念誌」掲載のもの。

飯田龍太「ほうとう」原稿
出典 :  山梨県立文学館HP

◇飯田龍太に贈られた幸富講こうふこう寄せ書き 額装
 こちらの寄せ書きは、飯田龍太が栃代川(身延町の渓谷)で釣り上げた山女魚6尾を白焼きにして、東京の幸富講の仲間へ贈り、これを賞味した幸富講の人々が寄せ書きをしたため、龍太へ返礼として贈ったものです。
 「幸富講」とは、井伏鱒二(1898年~1993年、明治31年~平成5年)を中心とする作家、編集者、建築家などの集まりで、山梨の桜、桃の花見、温泉への旅行を楽しんだ会でした。龍太はもっぱら接待役でした。
 寄せ書きの冒頭には、井伏鱒二が山女魚の絵を描き「龍太氏給与の山女魚を食らひ廣瀬三郎君の快復を祝ふ会 井伏鱒二」と記しています。

飯田龍太宛幸富講寄せ書き(部分)1969年7月6日 井伏鱒二画・書
出典 :  山梨県立文学館HP

◇飯田龍太旧蔵 釣り竿「わすれね」
 井伏鱒二の釣り仲間であった飯田龍太の釣り竿です。「わすれね」は井伏が記したといいます。

 さらに山梨出身の作家、熊王徳平、中村星湖のほうとうに関する原稿があります。

◇熊王徳平「甲州に生きる(三)」原稿
 富士川町生まれの作家熊王徳平(1906年~1991年、明治39年~平成3年)も甲州の食の話題として「ほうとう」を語っています。

◇中村星湖「『ほうとう』と『やきもち』」原稿
 富士河口湖町生まれの作家中村星湖(1884年~1974年、明治17年~昭和49年)の随筆の原稿です。「ほうとう」「やきもち」を子どもの頃から特別に旨いと思って食べて来たと紹介しています。

第3章 食卓の風景

食事の場面が魅力的な小説、詩歌はたくさんあります。日常の食事や特別なごちそう、旅先での場面など設定はさまざま、食べ物が並んだ様子はもちろん、食べる仕草や表情、心の中、会話などもすべて食卓の風景として描き出されている。

 まずは、俳人正岡子規(1867年~1902年、慶応3年~明治35年)に関する資料が展示されています。

◇正岡子規「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」句碑拓本 額装
 あまりに有名な句の拓本です。法隆寺鏡池の西に句碑があります。

◇正岡子規「飯待つ間」原稿〈複製〉
 脊椎カリエスを病む子規が日常の情景を観察した写生文です。

◇正岡子規「財布賛」軸装
 1902年(明治35年)病床で書いた書です。門人の岡麗おかふもとからもらった財布に入った二円を何に使うか悩む心を詠んだといいます。

正岡子規「財布賛」軸装 1902年
出典 : 山梨県立文学館HP

 続いて、窪田空穂、芥川龍之介、太宰治、田中冬二の資料です。

◇窪田空穂「年の神この松にしも降りませ忝しや真白なる飯」軸装
 毎年訪ねる年神様が、正月の松飾りに降りてくるように祈り、白いご飯を食べられる感謝を詠んだものです。

◇芥川龍之介「芋粥」未定稿
 芋粥をあきるほど食べたいと思っている主人公、それがかなえられそうになった時の心理を描いています。

芥川龍之介「芋粥」未定稿
出典 : 山梨県立文学館公式 X

◇芥川龍之介 ヨーグルトの広告文案
 芥川が東京帝国大学在学中の頃のものと推定されます。実父の経営する牛乳搾取販売店「耕牧舎」の宣伝文として書いたものです。

◇太宰治「斜陽」原稿〈複製〉
◇太宰治「斜陽」草稿
 「斜陽」の原稿は冒頭で朝食の場面です。草稿は第5章、第7章に対応するものといいます。

◇田中冬二「富士ビューホテルにて」額装
 1943年(昭和18年)、田中は詩人堀口大学、第一書房社主長谷川己之吉を誘い河口湖畔の富士ビューホテルに宿泊しており、朝食の場面を詠んだ詩です。詩集『葡萄の女』に所収。後日、富士ビューホテル敷地の河口湖畔に文学碑が建てられています。

田中冬二書「富士ビューホテルにて」
出典 :  山梨県立文学館HP
スープに浮かんだ逆さ富士がモチーフの碑
出典 : 富士河口湖町観光情報サイト

 続いて、俳人山口誓子(1901年~1994年、明治34年~平成6年)、児童文学作家坪田譲治(1890年~1982年、明治23年~昭和57年)による子どもたちのおやつの様子を描いた句、詩です。

◇山口誓子「匙なめて童たのしも夏氷」軸装
◇坪田譲治「うちの良い子はお菓子好きとなりの良い子もお菓子好き 良い子
はみんなお菓子好き」軸装

 さらに食にまつわる原稿が続きます。

◇武田百合子「日々雑記」原稿
 随筆家武田百合子(1925年~1993年、大正15年~平成5年)は、雨の日夫の墓参に行くと住職が事務所職員に「ジヒヨーカン」を出すように言っていたが。雨の日にじっくりとした羊羹を食べたくなると楽しみにしていると聞き違いというお話。

◇大庭みな子「舞へ舞へ蝸牛」原稿(第13回「うなぎ」)
 霞ヶ浦近くに生家のある父はすぐにうなぎを食べようというが、新潟の海辺近くに実家のある母は「あたしならおさしみを食べるのに」というお話。

◇村田喜代子「鍋の中」原稿
 「わたし」を含めた4人の孫たちが夏休み、祖母の家で集まりすごす。「わたし」は祖母の代わりに毎日料理を作るというお話。

◇高村光太郎「レモン哀歌」原稿〈複製〉
 『智恵子抄』に収録、52歳で亡くなった妻を悼み詠んだ詩です。

◇泉鏡花「湯島詣」原稿〈複製〉
 名家の婿養子と芸者の悲恋物語です。
 第1章で紅茶の入ったカップを「薄紅色の透取すきとおる、硝子盃コップ」と表現しています。

第4章 お酒のシーン

 食べ物とともに作家たちを楽しませたのはお酒です。酒にまつわる作品や資料が紹介されています。

◇堀口大學「酒の粕とは言にこそ」色紙

◇井伏鱒二「勧酒」対幅 〈複製〉
 中国唐代の詩人「于武稜」の漢詩「勧酒」を井伏が日本語訳したものです。

◇井伏鱒二「十一屋の若旦那」原稿
 明治初期、甲府で日本初の国産ビールを製造した十一屋酒造の野口正章の苦闘の足取りを辿る作品。

 酒好きの太宰治(1909年~1948年、明治42年~昭和23年)に関する資料が並びます。

◇檀一雄「おめざの要る男」原稿
 太宰治について語っているものですが、太宰は翌日の迎え酒を「おめざ」と称して飲んでいたと書いてます。

◇太宰治 熊王徳平宛はがき 1944年(昭和19年)9月10日
 太宰が熊王徳平に9月16日に訪問を告げ「飲みたいです」と一言書いてます。
 この頃、太宰の妻が出産のため甲府の実家に戻っており、太宰は三鷹と甲府を往復しており、熊王や疎開中の井伏とよく酒をの飲んでいました。

太宰治 熊王徳平宛はがき
出典 : 山梨県立文学館公式 X

◇熊王徳平「その墓に酒打ちかけよ桜桃忌」色紙
 太宰の忌日である桜桃忌(6月19日)を想い書いた色紙。

 与謝野晶子の「春鶯囀」の額装のほかに、酒の瓶が並びます

◇与謝野晶子「法隆寺など行く如し甲斐の御酒春鶯囀のかもさるゝ蔵」軸装
 のちに富士川町の酒「春鶯囀しゅんのうてん」の酒名になった歌です。
 1933年(昭和28年)与謝野鉄幹、晶子夫妻は教え子で詩人でもあった中込純次の実家である萬屋醸造店(現富士川町)に滞在しています。

萬屋醸造店を訪ねた与謝野夫妻
出典 :  萬屋醸造店HP

 「春鶯囀」のほか甲府市(右左口町)出身の山崎方代の名を冠した酒なども並びます。
 林真理子のワインボトルは1993年国立劇場で名取り「藤間藤毬」として京人形を舞った記念のもので、勝沼産100%の甲州種使用したワインとのこと。

◇大吟醸「春鶯囀のかもさるゝ蔵」酒瓶 萬屋醸造店
◇清酒「方代」酒瓶 齋彌酒造店
◇清酒「方代」酒瓶 笹一酒造株式会社
◇吟醸酒「右左口路」 酒瓶大冠酒造株式会社
◇周五郎のヴァン」ワインボトル 中央葡萄酒株式会社
◇林真理子記念ワインボトル 原茂ワイン株式会社

第5章 料理する作家たち

 食べ者に関心の深い作家は大勢います。檀一雄は本職に負けないほどの腕をふるい料理本も出しました。深沢七郎は自分のお店を開いていました。

 文壇屈指の料理人と呼ばれた檀一雄の持っていた湯呑み茶碗と水彩画があります。

◇檀一雄旧蔵ワインボトルの籠と湯呑み茶碗
 ボトルは岡山県成羽大関酒造の本格米焼酎 「DAN INTERNATIONAL」
◇檀一雄「静物」水彩画
 葡萄が描かれています。
◇檀一雄「酢・油」水彩画
 酢・油のボトルに魚の骨の載った皿が描かれています。

 続いて小説「楢山節考」の深沢七郎(1914年~1987年、大正3年~昭和62年)はギター奏者であり、日活ミュージックホールに出演していた異色の経歴の作家です。
 晩年は1971年(昭和46年)から東京都向島で今川焼の店「夢屋」を開店しています。1979年頃、草加市に移転し焼き団子屋となるも夢屋の屋号でした。
 横尾忠則がポスターを描き、包み紙は赤瀬川原平デザインという贅沢さです。

「夢屋」で今川焼を焼く深沢七郎
出典 : 共同ニュース

◇写真パネル 佐藤真樹撮影 今川焼「夢屋」店内の深沢七郎
 上記画像とは異なります。
◇横尾忠則デザイン「夢屋」ポスター
◇赤瀬川原平デザイン「夢屋」包装紙

(左)赤瀬川原平デザイン「夢屋」包装紙
(右)横尾忠則デザイン「夢屋」ポスター
出典 : オークファン

第6章 いのちを食べるということ

 食べるとは「いのちをいただく」ということ、宮沢賢治は「食べられる側」のいのちに心を寄せ深く胸を痛めたといいます。

 宮沢賢治の人生において重要人物との評価の高い韮崎市出身の保阪嘉内かない宛の書簡(1918年5月19日)が展示されています。
 保阪嘉内(1896年~1937年、明治29年~昭和12年)は盛岡高等農林学校で賢治と同室となり親友となった人物で、賢治からの手紙は73通確認されています。

文芸同人誌「アザリア」の仲間(個人蔵) 出典 : wikipedia
左上が嘉内、右上が賢治

◇宮沢賢治 保阪嘉内宛書簡 1918年(大正7年)5月19日
 賢治は、食卓に乗った魚や屠殺場に引かれていく豚に思いを寄せ、せつない気持ちを訴えています。「私は春から生物のからだを食ふのをやめました」と語っています。

◇宮沢賢治「永訣の朝」原稿〈複製〉
 結核を患って無くなる妹トシに死の間際、庭の松の葉に乗ったみぞれを賢治は最後の食べ物としてトシに捧げています。

 賢治の言葉にて、現代の私たちにも「食べる」ことの意味を問い続けるところで展示は終わります。

おわりに

 食が関連する文学作品ばかりを集めた展示はたいへん面白いと思いました。欲を言えば、登場する「ほうとう」などが分かるような写真パネルなども欲しかったところです。夏休みで他県からも多く観覧されるので地域食への解説がもっとあってもよいと思いました。
 ところで、山梨の夏は今年も35度越えの猛暑日が続いています。こういう時は空調の効いた文化施設にいるのが一番です。夏休みということもあり、普段より美術館、文学館は賑わっていました。さすがに屋外では人を見かけませんでした。

猛暑で人のいない芸術の森公園

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