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提出一番の60点

努力賞が嫌いだ。

いや、努力賞にしか頼れない自分が嫌いだ、たぶん。

最近、会社の研修でレポートを書いた。

○月○日AM提出期日。私はこの1営業日前に提出していた。その次のレポートは課題が出た当日に出していた。

社長から返信が来た。

「あなたはいつも提出一番!それはすごいことですよ。」

とのこと。

そんなに高速で提出したわけでもなかったから、ちょっと驚いたけど、そのときは単純に嬉しかった。

でも、同時に「昔っから、これしかないんだよな」という気持ちは湧き上がってきた。


昔から、いつもギリギリでいい成績を取っていた。最後のツメが甘いから、テストは大体89点だ。でも、「ノート提出」は評価A。A以上の「Aマル」をもらえることも多かった。だから、ギリギリ、情けで、温情で、テストの点が足りていなくても成績を一個上に付けてもらっていた。

そういう経験が一度や二度ではなく、小学1年生からずっとずっと、続いている。

だから私はノート提出に固執した。自由研究に、自主学習に、課題に、卒論に固執した。

でも、センスのある人はあっという間にそんなものを飛び越えていく。

授業で寝ようが、ノートがまっさらだろうが、遅刻しようが、関係ない。圧倒的な実力で叩きつけてくるのだから。

そうやって何度も、私が小賢しく頑張って貯めてきたものをひとっ飛びで超えられてきた。

そういう人は決まっていうんだ。
「ノートなんて真面目に書いたことがない」
「ずっと授業中は好きな本読んでた」
「グループワークなんてずっと遊んでたよ」

その人たちにとって笑い話であり、英雄伝であればあるほど、私の心にはグサグサと突き刺さる。

私はまた簡単に超えられたのだ。また努力賞で喜んでいる馬鹿だったのだと。

キラリと光る才能を、個人の努力を凌駕するコミュニケーション能力を、うまく世を渡る身の軽さを、私はずっと超えられない。

目の前にいる人がそういうタイプだと思った瞬間にもう勝てないと思ってしまう。

社長、いつも提出一番なのは、本当にすごいことなのでしょうか?

きっと私のレポートは全体で見たら60点程度で、遅れて提出するような人のなかにキラキラと輝く90点の文章があったのではないだろうか?

その人は課題図書なんて読んでもいなくて、感性でさらっと「なんか適当にやったわ」とか言うのではないだろうか?

「早いことはすごいこと」「継続できるのはすごいこと」

そんな言葉を聞くたびに、疑心暗鬼になってしまいます。

私が見ている、「キラキラした才能ある人」はどこかで何かを頑張っていて、私にはそれが全く見えていないだけかもしれないけど。

それでも、見せずにそれができるのはすごい。私はいつも、ノート提出のころから、見てもらうことでしか満足できなった。評価された気分になれなかった。

……そうか、私は「これでしか評価されない」のではなくて、「少しでも評価された気分になりたい」からこういうことに固執してるのかもなあ。

もう20年以上は変わっていない性格、もう変わらないだろう。30歳越えても、私のノートにAマルを付けてくれるような人に、環境に出会えるのだろうか。

自分の承認欲求に向き合うのはほんとうに難しい。

でも、やっぱり、出された宿題はやるから、世の中の人は私に宿題をください。みんなより早く出すかもしれません。世の中の人は、思ったよりちゃんと宿題をやらないから、その分私が得させてもらうとします。

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