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小説| 平成ネオンモス。 #3 - いち抜けした恋人は、土の中でスズメダイと。

 あの娘たちはウサギを買えただろうか。
 臨時のテレフォンアポインターとして電話機との慣れない格闘を終えたきりは、無駄足を踏んだことを悔やみながら会社をあとにした。
 二十三時。最寄りの地下鉄駅へ走る。発車の音楽が地上へ漏れ出している。酸素の薄い、アンモニア臭の混じった空気の漂う入り口階段を降りた。
 きりは電車に乗ると真っ先に、昼休みに書店で買ったばかりの本を開いた。座席が揺れる。文字が美しい紋様に見えるのは、美しい人が紡いだ言葉でできているからだ。柔らかく、流れるような、ほどけないように文字と文字がしっかり結ばれた不連続なテキスタイルに見とれてページが一向に進まない。等間隔に配置された細長い照明灯が窓の外を流れる。次第に時間・方向の感覚が麻痺していく。都会の地下に潜ったきりの感覚は、動物実験で三半規管をいじられたラットのように前後左右を取り逃がし、電車が路線通りの方角へ移動していることさえ疑わしく感じられる。あ、純哉の名前だ。中釣り公告に鴨居純哉の名前を見つけた。純哉とは大学時代、詩の同好会で知り合った。
「◯△新人文学賞受賞作」。電車の中で、こんなに大きく印刷された恋人の名前を発見するなんて、生まれて初めてのことだ。

 昼間、書店に純哉の本が平積みされているのを見た時、きりは全身のうぶ毛が逆立った。見知らぬ女性が、純哉の本を店内のカウンターに差し出し、お金を払っていた。彼女が家に帰り本を開き、純哉の心の中を垣間見たら、彼女は純哉に心を刳られ、純哉を好きになってしまうかも知れない。そして彼の次作が出たら一目散に買いに走るのだろう。ふふ、でも鴨居純哉の誰よりもいちばん近い距離にいるのがあたしってことは紛れもない事実だからね。
 カバーの折り返しにいる微笑した純哉の写真は、有名な写真家が撮ったもので、スマートフォンのカメラで純哉を撮るきりには決して見せない高級な笑顔を作っている。柴犬そっくりの幼い顔立ちと、頬にふっくらと肉のついた輪郭はいつもの純哉だが、純哉は普段あんな風にゆるふわに髪の毛を立たせたりしないし、写真のようなアシメントリーな服も着ない。おそらく、周りの人間たちのなすがままになってしまったのだ。世間の人々に、純哉が時代に媚びた商業作家だと思われたら、無性に嫌だ。

 純哉は、今日も変わらず家具屋のアルバイトに精を出している。家具屋なんて早く辞めるべきだときりは思う。きりはそれなりに稼ぎのある今ならどうにか彼を食べさせていくことぐらい出来るが、純哉は、心身共に華奢で頼りない癖に自立を愛している。針金のように細い両腕で、くるみ材やチーク材の重い家具を運ぶのだ。彼の腕はそんな荒っぽいことに使うべきじゃないのに、ときりは思う。純哉の勤務する家具屋で売られている家具といったら、相当重いらしい。「良い家具は重いんだ」と純哉は涼しい顔で言う。純哉の家に着いたら、あたしより上手に言葉を紡ぐことの出来るその指で、あたしの頭を撫で回して欲しい。自己啓発プログラム用CDシリーズの年間契約のノルマ期限が迫っているの。今日も外を徘徊してきたのよ。ドアが開くと何か乗り移ったみたいに、面識のない人間の前であたしはたくさんの言葉を話し始める。とめどなく溢れてくるの。一日十件の、大抵は一坪に充たない玄関先だけど、純君、こんなあたしにも自分の言葉を吐き出す場所は与えられている。商品を売るためなら、どんな嘘を言ってもあたしは平気。嘘が嘘じゃなくなるくらい、言葉を研ぎ澄まし、吟味するの。言葉の操り方といったら、あたしって天才かもしれない。でも、純哉は騙されないでね。君だけにはあたしのほんとの嘘を見破って欲しいんだから。これってエネルギーの燃やしどころを間違っているのかも知れない。そういう意味じゃ、純哉って的確だよ。あたしはたまたま好都合の場所を見つけてしまったのがいけない。他人の玄関先を失うのが怖いのよ。自分の書いた詩を玄関先で読めって?そんなこと出来ない。だって詩はきれいに燃えるだろうか。
 電車を降り、階段を上がる。
 見慣れた風景が見えてきた。地上に出ると、息切れがし立ち止まった。薄雲が空を覆い隠している。
 足元にある空缶を歩道の敷石に力まかせに投げつけると、通行人が一瞬立ち止まった。中に残っていた液体が通行人の服に飛び散っている。空缶を拾いごみ箱に捨て、素早く歩きだした。最近運動不足だから精神と身体のバランスが取れていないのだろうか。いや、毎日歩いているじゃないか、その証拠に向こうずねの筋肉がいびつに盛り上がっている。他の部分にも筋肉をつけたほうがいいかも知れない。では突然イライラが治まらず純哉を蹴り倒したくなって腹がむず痒くなるのは、肉類の食べ過ぎかも知れない。
 この生活はいつまで続くのだろう。詩人になり損ねたあたしの胸の内は常にねずみ色だ。あたしの吐き出す言葉は濁っている。美辞麗句を並べ立て、新鋭詩人気取りだった学生時代のあたしが、今じゃ詐欺紛いの仕事に浮かれているのは精神力が思いのほか貧弱だったからだ。変に賢くなってはいけない、知恵をつけてはいけない、馬鹿になれ。十代のうちから時間をかけ変更を重ねながらつくり上げたあたしの心の聖書には、確かそんな言葉が書いてあった。ならばあたしは随分素直な人生を歩んでいる。純哉は日々の生活に駄々をこねばたつかせた私の両手足をマッサージしながら「的外れだね」と優しく言う。そう、とても的外れだ。純哉に言われると、あたしは的を得たようにほっと気持ちが落ち着き、他に何も考えなくて済む。会社の仕事がはかどると人一倍ご機嫌を振りまき、給料が振り込まれると心の中で犬のように尻尾を振る。なのに突然気分の曇行きが怪しくなり、老いた象さながらに死に場所を考え始める時、純哉の与えてくれる言葉と身体であたしは少し生き返る。
 男が追いかけてきた。殴られる、きりは思った。即座に財布から一万円を抜き取り、表情を変えずに言った。「すみませんでした。これクリーニング代にしてください」
 男は札を掴み取り、きりのみぞおちに一発拳を入れ、倒れたところにもう一度蹴りを入れた。
「調子乗ってんなよこのクズ女っ」
 きりは起き上がり少し吐いた。男がまだ近くにいるのかどうか確認するのが怖いので、誰とも目が合わないよう下を向いたまま歩き出した。


 ドアには鍵がかかっていて、インターフォンで呼んでも応答がなかった。合鍵を出そうとポケットに手を突っ込んだが見つからない。さっき電話の向こうではしゃいでいた声の主はどこへ行ってしまったのだろう。待ちくたびれて怒って出かけてしまったのだろうか。
 南に回り、サッシ戸に手をかけると鍵が開いていた。カーテンを払い、息をひそめ部屋へ上がった。純哉が死体になって部屋に転がっているんじゃないだろうか……きりは、常習的に、根拠のない想像に怯える。
 水槽の中のスズメダイの群れが侵入者に驚いて鱗をきらりと光らせ、せわしく移動を始めた。デジタル時計の23:38を示す数字と、テレビの主電源のライトの赤い残像がきりの両目の中で浮遊している。
 室内灯のスイッチを手探りで探し出した。
(……きりを部屋で待ってる時は、水槽の中のスズメたちを見て時間を潰すの。そのためだけに飼ったんだ)
 水面でエアポンプの細かい泡が弾ける。モーターが人の声のように低く唸っている。水底に沈められた固いスポンジから空気の玉が昇っていき、その水流で砂利の粒もころころと浮き上がる。手のひらを水槽にあてると、人肌ぐらいの温かさだ。きりが近づいたので魚たちは天地無用に暴れまわっている。
「何匹いるか数えてみれば?」ある日、純哉に言われると、きりは水槽のガラスに指で印をつけ、懸命に数を数えた。十七匹いた。けれど全然確かじゃない、純哉は未だに正解を教えてくれない。
 サッシ戸を開け放し、夜の風を入れた。冷蔵庫を開けると奥の方にバナナがひと房入っていた。熟しきっていないバナナの青臭い匂いを鼻で確かめながら、きりははっ、と思い出した。そうだ、さっき純哉の本の中に見つけたのは確かに「自分の」言葉だった。それはきりが眠れないでいた明け方近くに発見し、感動のあまり、すぐに電話で純哉に聞かせた言葉だった。純哉が盗みをはたらくなんて。残念だし信じられない。きりの理性が間に合わなくなってくる。犯罪を証明する証拠はどこにもないけど。あたし、純哉を許せないだろう。神様、純哉に罰をお与えください……。きりは真剣に念じた。いや、今のは撤回します神様ごめんなさい、でも本音です。

 冷えたバナナを食べながらソファに寝そべり、外を眺めた。軒先に射し込む街灯の明かりが、オリーブの小さな葉っぱからこぼれ落ちそうだ。
 ごめんね、鉢植えでいたかったでしょ?栄養のない白っ茶けた庭の土の上より、日当たりがイマイチでも部屋の中にいたほうがマシだったわ。軒先に植えてすぐ、大家がアパートの周りに除草剤をまいた時はぞっとしたが、運良く枯れないで育ってくれた。
 他に、この部屋から出ていったもの。純哉が実家から連れてきたアンティークのテディベア。居心地良さそうに本棚に座っていたのに。そして本棚と、本棚を埋めつくしていた純哉のお気に入りの本。きれいな色のクッションを何個も並べて使っていたベッド。壁に貼ってあった、きりの知らないイタリア映画のポスター。その他大量の雑貨類。いつもにぎやかで、不快でない程度に散らかっていて、純哉の匂いのした部屋。
 純哉が家財道具を一切処分すると言い出したのは、突然だった。リサイクルショップの人が安い値段で引き取りに来た。引き取ってもらえないものはほとんどゴミになった。オリーブだけは、きりが外に直植えし、生きながらえた。
 純哉がアルバイト先の家具屋から値引きしてもらい購入した革張りのソファと、中古の薄型テレビと、熱帯魚の水槽が新しく部屋にやって来て、壁に平行に配置された。純哉の気紛れで突然始まる模様替えを、きりは最近になっても何度か手伝った。模様替えのたびに、きりは見た目より随分重いソファを純哉と二人で持ち上げ、1DKの部屋の中をうろうろする。思いがけない労働に不満げなきりの顔色を覗いた純哉が言った。
「中途半端な家具はもういらない。閑散としてる?今はこれで十分なの。僕の生活と、部屋の大きさと、気分との重力バランスがこれくらいなの。きりの存在配分もね。バランスが崩れたら、風通しが悪くなる」
 カーテンが揺れた。アメリカのコメディ番組の放送を終えたテレビのディスプレイには砂嵐が飛び散っている。きり子は冷蔵庫から缶ジュースを取りに立ち上がった。
「純?」
 ドアが開くと、純哉が立っていた。片手で空のグラスを握っている。その手は遊んだ後の子供のように汚れ、爪に土が挟まっている。ジーンズの裾には乾いた泥がついている。
「ごめん」と言って純哉はだるそうに靴を脱ぎ、ソファに寝そべっているきりの隣に深く背中を埋めた。きりは純哉の顔を見た。
「勝手に上がらせてもらってたよ。仕事、すごく遅くなっちゃった。純君どこ行ってたの?死体を埋めてきたみたいな格好じゃない」きりは笑った。
「スズメダイが一匹死んでたんだ。それで、埋めるとこ探してた」
 純哉が静かに言った。
 オリーブの根元なんかどう?ときりが言おうとしたら、純哉が言い放った。
「庭先に埋めようと思ったんだけど、僕の後にこの部屋に入居する人や大家が掘り返すかも知れないでしょ?公園に行けば埋められそうな所あるかなと思ったんだけど、地面がやけに固くてさあ、かといって砂場に埋める訳にいかないし、花壇の土はツツジが根を張っていて深く掘れないしで、他を探したの。疲れた」
「それで、埋めるところはあったの?」
「うん、あった。小学校の裏。安心して骨になれそうな場所」
「それで今までかかったの?もう一時だよ」
 純哉が何をしていたのか、きりには容易に想像出来る。南国生まれの青い小魚の霊を引き連れて、夜の住宅街を徘徊する姿が瞼の奥に映し出される。純哉は散歩が大好きだ。この街の、道という道は全部歩いてしまったらしい。純哉は、私とは全く別の素敵な方法で、外を徘徊する権利があるのだろう、きりは思う。
「なんせ、土探しに時間がかかりすぎた。探している間ももしかして生き還るかもしれないと思って、グラスから目が離せなかった」

 そして、その夜起こった一部始終を水槽のスズメダイたちが目撃することになった。

――――僕が泥棒?そんな認識も罪悪感もないけど。きり、どうかしてるんじゃないの?僕を味方だと思ってくれてたんだ。へぇ、意外。悪いけどそんな次元で物事を考えられないし。僕が地獄へ?呪ってやるって?陰湿なんだね。別に地獄へ行っても構わないよ、僕は僕で必死にやってるのね、いいじゃない、きりには訪問販売の才能があるんだろ?僕にはとても出来ない技だよ。
 がらんとした部屋の真ん中で、ふたつの声が冷たく衝突し、行き場を失った。

 きりは夢を見た。
 どこに埋めたの?ねえ、どこに埋めたの? きりが純哉を問い詰める。
 忘れた。と純哉が言う。
 探しに行こうか。きりと純哉は夜の住宅地を裸足で歩いた。
 みんな、ペットが死んだらどこに埋めているんだろう。
 たとえばイグアナ。
 たとえば猫。犬。動物用の火葬場がちゃんとあるんだよ。
 みんながみんなそこに持っていっているとは限らないな。やっぱり土に埋めるんだよ。何かが死ぬとみんな埋める土を探すんだ。
 純哉ときりは土を見つけた。手で掘っても感触がないほど柔らかかった。ねえ、土を食べたことある?純哉が言った。あるわけない、ときりは答えた。
 幼稚園の頃ね、ご飯茶碗に土を盛って女の子に渡したら、その子土を食べちゃったの。僕、思わず聞いた。どんな味?って。苦い、って言ってた。
 純哉ときりは笑った。笑いながら土を掘った。白いものが見えた。生温かいものに指が触れた。純哉ときりが埋まっていた。二人は抱き合いながら土の中で笑っていた。きりを抱き締めるとねぇ…丸めた模造紙みたくがっさがさなんだ、土の中で純哉が言った。

(#noteへの掲載はここまでとなります)


「平成ネオンモス。」紙本を、2023/11/11(土)文学フリマ東京37「ぴき
出版」ブースで販売します。

後日、「BOOTH」で紙本「平成ネオンモス。」を販売予定です。匿名で購入可能です。
電子書籍化については未定です。


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