加筆版・チョイと軽めの戯言『禍福は糾える縄の如し』を実感したであろうアート・モレノオーナー
大谷翔平がドジャース移籍1年目にして、ワールドチャンピオンチームの一員となって二週間が経つ。
ネットやメディアでは引きも切らず、大谷翔平の活躍にフォーカスした特集やらアーカイブが放送されているのだが、かく云うわたしもその手の番組は見逃すことなく視聴させてもらい楽しませてもらっている。
そんな中、よく耳にするフレーズにチョットした疑問を持つに至ったのでチョット書いてみようと思い立ち、朝、コッ早くからパソコン前に陣取る。
よく耳にするフレーズとは何か。
「エンゼルスのオーナーはさぞ悔しい思いをしているだろう」
「モレノは契約延長を勝ち取れなかったことに苦々しい云々」
などなど、どちらかと云えば、エンゼルスオーナー アート・モレノ氏の経営判断の間違いを揶揄した言葉が散見されるのである________。
これは経営者であり、経営幹部にその身を置いた者の方が感じやすく、所謂、共感を得やすかろうと思える心の動きなのだが…… 。
オーナーのアート・モレノやGMのペリー・ミナシアンにするのなら「大谷翔平に対しては企業体として出来る限りの礼は尽くした」と考えている節が小さくはないだろうと、わたしには感じられる。
もっと云へば…… 「これ以上のことは出来ない。いや抱えきれない。うちのチームでは持ちきれない」という思いが勝っていたのだろう。
アート・モレノは一度はチームを売りに出した。あの判断は正常だった。経営者として、最も企業価値が高いところで売り抜けることを考えるのは当然である。大谷翔平という人材は、売り抜ける上においては企業価値を高めるパイロットランプの役割としてはこの上ない存在だった。
しかし、モレノは翻意した。何故か。
モレノが大谷翔平に観たものは「異端」だったのかもしれない。MLBの歴史百数十年で積み上げ、作り上げてきた「正統」に対して大谷翔平は"異端"と映ったのではないだろうか。モレノは企業売却を翻意し、チーム作りを選択した。「これで正統…… 本来のチーム作りができるだろう」と。
大谷翔平のドジャースとの契約を見てもわかる通り、自分が現役活躍時の給与を10年後の後払いを申し出るという考え方が出来る選手である。
この交渉オプションはエンゼルスにも伝えられていたと報じられている。なのになぜ、エンゼルスの経営陣はこの涎の出そうな申し出を受けることが出来なかったのか。
10年後と云えば、このところ怪我に泣くトラウトも、不良債権化して久しいアンソニー・レンドンもチームを離れている。
したがって、エンゼルスは大谷翔平のサラリー償還までに10年間の期限の利益を手にすることが出来、その間にチームの再建をすることも可能だったはずなのだ。しかし、アート・モレノはその選択肢を捨てた。
チームのアイコンとして活躍してくれる選手は欲しい。大切に育てたい。
しかし、今や大谷翔平はMLBのアイコンとなりMr.MLB、The Man of MLBとして存在感を際立たせる選手になった。
こういう選手を抱えることによって経営者が抱くジレンマ。
一言で書いてしまえば「格の違い」となろうか。
大谷翔平がエンゼルスに所属した6年間。エンゼルスは一度もPOに進むことが出来ていない。ドジャース移籍、ワールドチャンピオンチームの一員となった姿を見て、ファンは「OHTANIの6年を無駄にしたチーム」とレッテルを貼る。あの6年があったから今があることを忘れてしまったように。
『禍福は糾える縄の如し』という言葉がある。
禍福と考えざるを得ない企業体としてしまった経営陣の力及ばず感は否めまい。しかし、大谷翔平という人間を最後まで抱えきった潔さには、称賛の声が上がっても良いのではないだろうか。
ただ、経営者としてはけして言えまい。
「禍福は糾える縄の如し」
Too much can be as bad as too little.(過ぎたるは及ばざるがごとし)
「ウーン… 格が違い過ぎるのだよ」
Um…… Too much difference in status.
とは。
エンゼルス経営陣に幸多からんことを。
大谷翔平も感じていそうではあるのだが…… 。
『いつか、ワールドシリーズでエンゼルスと戦う日が来れば一つの目標は達成できるかもしれない』と。