生きづらい人が「努力の仕方」を身につけるにはある程度の年齢が必要かもしれない話

生きづらさを抱えていて、メンタルの調子も崩して、就活を放棄したことは以前書いたけど、これってもしかして、

努力の仕方=着地点を見つける時の「自分なりの」メソッドやセオリー

これがわからなくて放棄した、ということなのかも?ということに最近気がついた。

この「自分なりの」というのが大事で、他者のものさしでのメソッドやセオリーをそのまま使おうとすると苦しくなって拒否反応が出る。
私はそこで全部ぶん投げて引きこもったし、人によっては反社会的な方向に行く人もいるかもしれない。

ともかく自分で見つけた着地の仕方でないと、真に自分に居心地のよい場所を獲得するのは難しいし、無理のない形でやりたいことをやって成長していくのも困難だ。

発達障害やメンタルやLGBTやHSP、その他名前のつかない生きづらさ全般を抱えた人は、努力の仕方を見つけるのに少し時間がかかるかもしれない。

私も実際、30を目前にするまでかかってしまったので、早熟な人や一般的な人からすると遅かったのだろうなとは思う。
普通は進学やら就活をするときに血を吐くような思いをしながら見つけたりするものなのだろう。

長らく「努力=他人のものさしにいかにあわせるか」だと思っていたので、それの影響もある。

自分なりの努力の仕方や着地点の見つけ方は、仮に見つかってもそれすなわちゴールではない。
脳死でプレイし続けられるほど、人生はヌルゲーではない。

ただ、一度「これはこう努力すればいいのか」というメソッドが見つかると、他人のものさしにしたがって動いている時のような徒労感はなく、連鎖的に成長を続けていける。
しかも、自分にしっくりくることというのはだいたい興味があることなので吸収率も半端ない。
加齢で衰えた記憶力もなんのそのである。

だから、月並みな言葉にはなるけど、足掻き続けることは大事なのだろうと痛感している。

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