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トレーニングはメンタルを癒す、最強の自傷行為

毎日ではないが、最近は週に何度かトレーニングをしている。
外を走ったり階段運動したり、腹筋ローラーやプッシュアップバーを使っての腕立て伏せがメインだ。

当初の目的は最低限の体力を維持するとか、体型が気になるとか、そういうありふれたものだった。
長年の半ヒキ生活によって、身体が極限までなまっていたことへの危機感も大きい。

この記事の内容もかなり影響している。
知らない景色を見るために一念発起して長い階段を駆け上がったが、それだけで脚がガクガクになり、高齢者の体力にすら完敗した屈辱を書いたエッセイ(?)だ。
気の向いた方はこちらも読んでもらえると嬉しい。

トレーニングの話に戻そう。

階段の話からしばらくして、体力をつけないといけないと思い立ち、外を走ることにした。
動きやすい服装に着替え、何年も放置していた安物のスニーカーを履いて、息を巻いて外を走りだしたが、控えめに言って地獄を見た

少し走っただけで脚が悲鳴を上げるし、呼吸もすぐに乱れる。高校のマラソン大会の苦しみを鮮明に思い出した。
そんなざまなのに、一度やり出すと徹底的にやりたがる性格が発動して、復路のことも考えずに4キロ以上先まで行ってしまったのだ。
おかげで、初日から往復8キロの道程になり、翌日はひどい筋肉痛に襲われた。

同時期に腹筋ローラーやプッシュアップバーを買って筋トレも始めたが、ほんの数回で腕がプルプルしてしまうありさまで、笑うしかなかった。
それでも意地で回数をこなしたら、二の腕が内出血した。

散々なありさまである。

これまでの自分なら、即座にトレーニングを辞め、筋トレ用品は埃をかぶるところだっただろう。

だが、今回は意外にも、トレーニングを習慣化することに成功している。
まだまだ体力も筋力もないので毎日はできないが、週に1~3回は数キロは走り、例のめちゃくちゃ長い階段で階段運動をし、家でも筋トレもしている。
ゆるい気もするが、飽きっぽい自分にとって、これはかなり珍しいことだ。

何か続けるための秘訣をつかんだと思われるかもしれないが、特にそういうことはない。自己啓発本を読んだわけでもなければ、転機となる出来事があったわけでもない。

肉体的苦痛に依存してしまったのだ。


徳の高さチェックと精神的苦痛

僕の人生の大半を侵し、頭を悩ませてきたのはマイナス感情による精神的苦痛だ。
感情の内訳は過去を思い出しての罪悪感と羞恥心、現在の無気力感と先々の不安など、考えるだけで横になりたくなるラインナップだ。

この感情は放っておくと湧き水のように染み出てくる。
これを紛らわすためには、何かしらの行動をする必要がある。
行動することで初めて、自身の存在が許されるような気になり、メンタルが0かプラスの状態になるのだ。

今のように文章を書くのも行動の一環で、こういう行為をしていると、脳内で行われる『徳の高さチェック』を通過できる。

何もしないでいるとネガティブ感情に飲まれて腰が重くなり、それが怠惰を生んでさらなるマイナス思考を呼び込んでしまう。
あげくの果てには何もしたくなくなり、市町村の17時のチャイムを横になって聴くはめになる。
はたから見ればだらけているが、内心では常に自分を責めている状態なので、決して楽ではない。

これをどうにかしないと精神的な平穏は訪れないのだが、意識するだけでは根本的な変化が起こらないのも悩みどころだった。

変化は簡単には起こせない

創作物では、ドラマチックなシーンをきっかけに登場人物のトラウマが払拭されたり、長年続いた悩みが解決したりするが、現実はそうもいかない。

変化はあくまで、自分で起こす必要があるのだ。
だが、変化というのは短期間で起こせるものではなく、淡々と行動するうちにいつの間にか起こっている類のものだ。他人の影響やヒロイックな気分の1つや2つでどうこうできたら苦労しない。

僕も含む病みがちなオタクは、創作物のような変化に影響されすぎていて、気の遠くなるような積み重ねを前に挫折する。環境を変えて他人に揉まれるのも、疾患や気質のせいで厳しいだろう。

何かに挑戦しては短期間で力尽き、結局横になって自分を責めるのが、僕のような人間のルーティンなのだ。

トレーニングという名の依存&自傷行為

そんな僕の苦痛を軽減してくれたのが、トレーニングによる肉体的苦痛だった。
外を走っている時は、息苦しさや脚のしんどさに意識が向かう。筋トレをしている時は負荷がかかっている部位以外のことは考えられない。
いい塩梅の苦痛が、頭に居座っている抑うつ感を追い出してくれるのだ。

珍しくトレーニングを継続できているのは、横になっているより身体に鞭を打つほうが楽ということに気がついたからだ。

それと同時に、ふと思ったことがある。
もしかすると、トレーニングは自傷行為みたいなものなんじゃないか?

リストカットとトレーニングは似ている?

自傷行為と聞いて、真っ先に浮かぶメジャーなものはリストカットだろう。文字通り、手首を切るというメンヘラの十八番で、この行為に依存する人も少なくない。ちなみに、僕は痛がりなのでやったことはない。
リストカットは主に、自分の苦しみに気づいてほしいというアピールだそうだが、人によっては別の目的があるらしい。

それが、肉体的苦痛によって精神的苦痛を和らげることである。
つかみどころのない精神的苦痛よりも、ハッキリとわかる傷の痛みのほうが、トータルでは楽だということだ。

リストカットに依存する人がいる理由として、個人的にかなりしっくりくる話だった。

僕がトレーニングを続けられてるのも、ハッキリ言って依存だよなと思い、得意のネットサーフィンで意見を探してみると、似たような意見がちらほら見つかった。

Testosteroneさんのツイートは、後半こそネタっぽいものの、主旨には完全に同意だ。

僕が珍しくトレーニングを続けられているのは、わかりやすい苦痛に依存しているからで、その動機は自傷行為のそれに近いからだ。
自傷行為というのは、僕が思っていたよりも幅広い行為なのだと認識を改めることになった。

最近は、何かを頑張ること、変化を求めること自体が現在の自分の否定であり、一種の自傷行為なのでは…?とまで思っている。

誰もが何かに依存している

自傷行為に関わらず、何かに依存すると精神的苦痛が和らぐ。
誰もが日常のストレスや社会との軋轢を癒すために、物や人との関係、行為に耽っているはずだ。
トレーニングも、ゲームも、動画鑑賞も、物語に陶酔するのも、美味しい物を食べるのも、お酒を飲むのも、恋愛するのも、セックスするのも、タバコを吸うのも、パチンコを打つのも同じことだ。もちろん、リストカットも同じである。

これらの行為は、程度はあれど、すべて依存だと僕は思っている。
依存というと悪いものに思えるが、必ずしもそうではなく、法律を守って自己完結している分には問題ない。
恋愛やセックスのような、相手ありきの行為は折り合いも必要だし、タバコはTPOに注意が必要だが、露骨に迷惑をかけない限りは、好きな物に好きなだけ依存したらいいと思う。

許される依存と許されない依存

依存行為はみな平等!
と言いたいところだが、残念ながら依存行為には上下関係があり、時代の価値観によってせわしなく変動する。

昔、アニメは子供の娯楽と考えられていて、いい歳をしてアニメに夢中になる大人は犯罪者予備軍として扱われることも珍しくなかった。
今は知的な行為とされる読書もそうで、小説を読むと馬鹿になると言われた時代もあった。
逆に、昔はありふれていたタバコやパチンコは軽蔑の対象となっている。

「自分の好きなことを、100%肯定されながら楽しみたい!」
なんて願望が叶う日は未来永劫訪れないということだ。
自分が何を好むようになるかは制御できないし、運悪く世間から白眼視される物を好んでしまった場合は、そのデメリットを享受するなり、趣向そのものを隠すなりするしかない。

「堂々と好きなことができている!」
と思っている人は、自分の依存行為が運よく時流に乗っているか、自分の属性がその時代で有利かのどちらかだ。
普通の人は、何にどの程度、どのように依存するか、話していいものか、必ず悩むはずだ。
昔のオタクが趣味を隠していたのもその一環で、依存先によっては開陳できない物もあるのも仕方のないことである。悲しい話だが、そういうものだ。

それに加えて、僕のような『徳の高さチェック』を内面化している人間は、許されてる感を得られる依存先を選ぶ必要もある。
めんどうな性格だと自分でも思うが、こればっかりは気長に治すしかない。

許される依存、トレーニングはいいぞ

自分がやったからオススメするだけだが、メンタルを病みがちで悪循環から抜け出せない人にはトレーニングをオススメしたい。
もちろん、疾患のせいで起き上がれないとか出かけるのも無理という人は、適切な治療を受けるのが先だ。

Testosteroneさんが言うように、筋トレの負荷で筋繊維をカットするのは立派な自傷行為であり、その過程にあるわかりやすい肉体的苦痛も、精神的苦痛を和らげてくれる。
パッと見は健全な行動に見えるから、いちいち人の目を気にしなくていいのも大きなメリットだ。

おまけに、トレーニングは『セルフ徳の高さチェック』も問題なく通過する。シンプルに何かした感を与えてくれるので、何もしなかった日にありがちな自己否定感も起こらない。

痩せたい人や筋肉をつけたい人は、目標も設定しておくといいだろう。
精神的苦痛をやわらげているうちに、体型が変化するなんてこともある……かもしれない。ちなみに僕はまだない。

興味があるけどなかなか動けない人は、道具を買って逃げ道をなくすのもいい。形から入るのは、必ずしも悪いことじゃない。

道具を用意したら、負荷の少ないやり方で、少しずつ習慣化していくといい。慣れていない人は、少し取り組むだけでも良い感じの苦痛を得られるはずだ。

お金を払わずに始めたい人は、1人で外を走ってみるといい。
誰に急かされるでも見られるでもなく、ただ運動するのは思っているより気分がいいことに気づくはずだ。
いつもの道に飽きたら、知らない路地に入ってもいいし、疲れたら歩いてもいい。
体育の授業のイメージが強いかもしれないが、運動というのはそこまで窮屈なものじゃない。

もし、絵に描いたような筋トレも外に出るのも嫌なら、Youtubeで簡単にできるトレーニング動画を見て実践するのもいいだろう。横になりながらできる夢のようなトレーニングもたくさんある。

身体と精神は相互関係

また、当たり前と言えば当たり前だが、精神が身体に影響するように、身体もまた精神に影響するのだと、身をもって学べたのも大きかった。
落ち込んだ精神が身体を凍らせることはもちろんあるが、身体を動かして精神を引きずり起こすこともできるのだ。

最近はそのあたりのセルフコントロールも少しできるようになって、どうしても精神的にダメな時は無理やり運動して助走をつけることもある。
(もちろん、そのまま横になってYoutubeを巡回してしまうこともある。その時はいつもの憂鬱な気分をnoteに書き殴るつもりで楽しんでいる。)

今日は筋肉痛なのでnoteを書いたが、治まったらまたトレーニングをして自分を痛めつけるつもりだ。

まとめ

  • トレーニングによる肉体的苦痛は精神的苦痛を緩和する。

  • トレーニングは自傷行為で依存性がある。

  • トレーニングは徳が高く、許される依存行為。

  • トレーニングしてメンタルを引きずり起こそう。

  • 起き上がれないくらい不調な人はメンタルクリニックへ。

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