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冬苺(ふゆいちご)  二、人形の部屋

一、虫の味  
 二、人形の部屋
 三、彩雲   
四、渦の底  
 / 全四話

 ふくれ上がったポケットから盗んだものを投げ捨てると、いちごの腕をつかんだ若い警備員がドラマの刑事のような声を放った。

「今さらムダだ!」

 名場面を自ら創り上げるような大声が、向いのバーガーショップの中まで届いた。くくり罠にはまった獣のようにあばれるいちごを、通行人が脅えるように避ける。夏場の日焼けが抜けきらない顔の警備員が、極悪犯をたしなめるように叫ぶ。

「ムダだっ、あきらめろっ!!」

 引きちぎれそうなゴムのようにうねるいちごの腕をいっきに引いた瞬間、化粧品の瓶を踏んでバランスを崩した警備員のヒジが、いちごの顔に入った。もつれながら倒れこむ二人の間をプランターが引き離し、固いものが地面を打つ大きな音と同時に、警備員が靴底を見せた。店先が騒然となった。

 向かいのバーガーショップに渡る青信号の点滅を見たいちごは、スクバをひっつかんで横断歩道へ飛び込んだ。片手で頭を押さえた警備員が、一発喰らった格闘家のような顔つきでプランターのへりをつかんで立ち上がると、プランターごとひっくり返り花弁と培養土が激しく飛び散った。花店の中から叫声が上がった。

「やめて!」

 追いついてきたもう一人の大柄の警備員が、もういいからと若い警備員を制止した。必要以上に追うなと指示されているのだろう。敷地外に出れば警察の範囲だ。

 いちごは、マスクの下におそらく鼻血であろう水がたれてくるのを感じながら、赤信号に変わる寸前に白線の束を突っ切り、バーガー・ショップの店先で直角に曲がって、青になろうとする方の横断歩道に飛び込んでいった。急ブレーキを踏んだ車の向こう側をすり抜けたスクーターが、一瞬いちごに驚きながら黄色信号へ突っ込んでく。

 二階からいちごが見えなくなった三人は、食べかけのトレーを置きっ放しのまま勇二を残して階段へ向かった。店内に逃げ込んだいちごと鉢合わせても無視するのだ。頬を引きつらせて一階に降りたケイと未唯は、静かなレジ前に立ちすくんだ。店員に「ありがとうございました」と声をかけられ店外に出ると、交差点を渡った交番の先にいちごの背中が見えた。結局、いちごはモールの入り口を出てから横断歩道づたいに交差点をコの字に回って戻っていった格好だった。

 花店の前の人垣が次第に厚くなっていく。警備員は、沸騰した正義感でフタが飛んで湯気を吹いたかのような髪をおさえながら立ち上がると、プランターでぶつけた腕をさすった。拾い上げた赤色灯を剣のように握りしめ、はす向かいの路上を逃げていくいちごを睨みつづけていた。若い警備員は駐車場の誘導員らしい。

 スクバを振り回しながら小さくなっていくいちごを目で追いながら、脅かされたことに舌打ちしたケイがつぶやいた。

「ちぇっ、バーカ」

 二人が店内へ戻り階段を上ると、真理絵がトイレから出てきた。三人は周囲を気にしながら、黙って再び勇二のいる二階席へ戻っていった。

 全力疾走するいちごを、通り過ぎる人たちが振り返った。交差点から離れるほどひと気が減っていく。鼻から下が血だらけになってきて口に入ってきた。息がしずらくなってきたところで、もう一度道路を渡ってモールの裏手の道へ逃げ込んだ。まっすぐ行けば、公園の入り口だ。虫を食べさせられたところだ。

 公園内に人影がないのを見て飛び込み、走りながらマスクをはずしてみると、流れだした鼻血がマフラーに落ちた。マスクは半分以上赤くなっていた。ティッシュを取り出し思い切りすすって鼻に詰め、赤くなったマスクをはめなおすと、血を隠すようにマフラーを巻いて走った。振り返ってみたが入り口には誰も追ってきていなかった。

 血の味の空気だった。

 公園を突き抜けて五分ほど走って息が続かなくなり、後ろに人がいないのを確かめながら足を止めた。すれ違う人をやり過ごしてマスクを取ると、鼻に詰めたティッシュは血で熔けかかっていた。鼻をすすると血の塊が喉に落ちた。周りを確かめ電柱の根元に吐き出すと、糸を引いた血がなかなか切れなかった。地面にできた拳ほどの大きさの赤黒いシミを見ながら新しいティッシュを詰めると、また走り出した。

 何ども振り返ったが、背後から来る人影はなかった。唾を呑むと口の中が金属みたいな血の味で充満し、虫を噛みつぶしたときの感覚が戻ってきた。空気の冷たさで鼻の奥と胸が痛くなっては足をゆるめ、息がおさまってはまた走るのを繰り返した。

 胸が冷気に慣れて温まってくると、鼻の痛みが増してきて、歩をゆるめたとき、隣の駅についた。すぐに公衆トイレに駆け込んだ。

 やはりマフラーの内側まで血がしみてしまっていた。鏡の中の顔は口のまわりがふざけて塗ったみたいに色が違っていた。洗おうと頭を下げるだけですぐに鼻血がぶりかえした。焼かれるように水が冷たかったが、血を固めてくれそうでがまんした。

 個室の箱の中に入り、ちぎれそうな手でトイレ・ペーパーをちぎって何度も詰めなおすうち、スニーカーの赤い斑点に気がついた。あわてて拭き取ろうとしゃがむと、新しい血を落としてさらに汚してしまう。

「な゛んだよぉー」

 鼻の詰めものでなさけない声が出た。ペーパーを水に浸して何度もスニーカーの血をぬぐったが、濡れたペーパーは崩れてしまうし、うつむいていると詰めたペーパーがまっ赤になって落ちそうになる。ムキになって拭いていると、転んだときにできたらしいタイツの膝の穴が広がった。いちごは、ため息をついて便座に腰掛けると鼻を上に向けた。

(とにかく、一旦、ちゃんと血止めなきゃ)

 人が入ってくるのを心配しながら扉を閉め、便座に腰掛け血が固まるのをじっと待つことにした。幸い誰も来なかった。

 とことん走ったせいで、とりあえず寒さはなかった。半開きの口だけで息をしていると、顔全体が熱くなってきて、心拍に合わせて鼻がうずいた。スニーカーが気になって視線を下げると、すぐに鼻が重たくなる。真っ赤になったペーパーを便器に捨ててはつめ直し、再び天井を見上げるのを繰り返すしかなかった。

 頭に影響が出ているのか、天井が回転しだすような感じがする。上を見ながら、かじかんだ指の感覚をたしかめようと手をポケットに突っ込んだ。誘導員につかまれなかった手の方のポケットに、盗品の残りがあった。二枚のスマホだ。スマホが盗れるなんて信じられなかった。勇二に盗ったハイブランド・スニーカーは確か三万円以上のタグがついていた。スマホもどんなに安くても一台三万円するだろう。場合によって二台で十万越えるかもしれない。どんどんヤバくなっていく。

 スマホは電源が入った。適当にゲームの画面を開いて見つめた。面白そうだった。膝の穴を意味もなくさすった。元々へたってきているスニーカーをさかんに水拭きしたため、足まで水がしみてきていた。帰りの寒さがきつくなる。もういい加減新しいのが欲しかった。携帯も。

 スニーカーだって新しくできる。欲しかったアクセサリーとか化粧品とかが頭に浮かんだ。

「あ゛ー」

 膝の穴をさする手が止まった。急に痛みが鼻を突き上げた。目尻から水がたれてきた。

「あ゛で?」

 ずっと忘れていた、涙が出てきた。

 自分のモノは盗らない、盗ろうとも思わなかった。特に信念とかにしていたわけではない。考えることもなかった。心の森の中に、いちごなりの堡塁ほうるいがあったことにいちご自身が今気がついて、胸が妙な収縮をしだしたのだ。

 心の中の囲いが壊されていくつどに、囲いの中のものを失ったことを認めないための麻酔をしつづけていた。無感覚にするために。だが、壊”された”という言い訳の麻酔が効かない、壊”れた”という敗北感で本当に無防備になった心が震え出したのだった。最後のまもりが壊れたことで、涙が血のように流れ出していた。どうしたらいいのかではなく、どうしたいのかがわからなくなった恐怖が膨らむのを押さえようと、いちごの胸は収縮を繰りかえした。

 涙と鼻水が固まりかけた血を溶かしてしまい、焦って天井を仰ぐと重い血が喉の奥に流れて息が苦しくなる。一生鼻血が止まらないような気持ちになってきて、見上げた天井が急に近づいてくるように見えた。まるで大きな蓋をされ箱の中に閉じ込められたように感じた。

 誰かが入ってきた。今まで一度も涙を出すことがなかった分、一旦流れ出すと止まらなくなってしまったいちごは、息をしなければならない口を押さえ、トイレを流し、声を殺した。

 簡単なことだが、最初から死にものぐるいで抵抗すれば良かった話だ。なぜ言う通りにしてきたのか。過去の時間がいちごを問いつめはじめた。そもそも一回で終わると思っていた。言うとおりにすれば、彼らの望むものを盗ってくれば事態は好転するという爛れた期待を持った。

「マジかよ」

 ちゃんと盗ってきたいちごに、半ば驚きながら彼らは顔を輝かせ、そして確信と権利と得たように本当の侮蔑が始まった。事態は堰を切ったように苛酷さを増していった。まさか心のどこかで仲間にしてもらえると、対等になれるとでも思っていただろうかと、当たり前のことがわからなかった自分を責めた。

 いちごは、四方を塞がれた箱の中で思い出したくないことを、考えたくないことを、悔やむためだけのために掘り返しはじめた。涙と鼻水を放置したまま口を押さえ、噴き上がる嗚咽を呑み込みかえすと喉が激しく痙攣した。声を隠そうと何度も水を流した。意識さえあやうくなってきて、身体の下の渦の底からの叫びが、自分を呼んでいるように聞こえはじめた。



 自転車置き場から自転車を出すと、少し風が強くなってきた。血が隠れるようにマフラーを巻きなおし、風に向かっておそるおそる自転車をこぎ出した。

 いつものコンビニ女はいなかった。たまにだが、同じ時刻に、コンビニ袋を下げて太い首をのばし交番を覗き込んでいる不審な女がいることがある。マスクなので年齢はわからないが、固太りしてジャージの足がタイツみたいで、昼間からいかにもヒマそうな女だ。いつも誰もいない交番だから、取り返したいものか何かをねらっているのかもしれない。

 一ヶ月ほど前、駅前でケイらに囲まれているとき、いつものコンビニ女がじっと見つめてきたことがあった。あるのかないのかわかりずらい目で突っ立ったまま固まっているので、勇二が進み出て睨みつけたのだが、無言のまま歩道の真ん中で一ミリも動かない姿は、ずんぐりとした造りかけの地蔵みたいだった。

「ガイジだ」

 なんとなく危ない感じすらして、徐々に周りの視線が集まりだすと、ケイらは舌打ちしてホームへ散っていった。いちごは、女と目を合わさないようにして改札前から逃げるように走り去り、大通りに出る前に振り返ってみると、案外足は早いのか女の背中はすでにかなり遠くにあった。二足で歩く小熊のような足取りで角を曲がって消えていった。

 以来、ケイらはいちごを隣駅のショッピング・モールの裏の公園へ追い込むようになったのだ。公園の公衆トイレの方が人が来ず、いちごにとって状況は悪化した。

(あの地蔵女のせいだ)

 自転車で交番の前を通り過ぎると、いつもどおり中には誰もいなかった。空はまだ明るさが残っているが、漕ぐほどに濡れた足の先が冷たく痛くなった。

 家の前で片足を地面におろすと、感覚がなかった。玄関口で父親の正人と鉢合わせた。今日は久々に区役所へ出勤したはずだったが、もう帰って来たのだ。いつも四角いメガネの奥で死人のフリをしているような正人の目が、いらだちをいちごに固定していた。いちごは、まずいと思った。

「何やってるんだ」

 今日は半日のはずの学校から、今頃帰ってきたことを言っているのだ。親として娘を心配してでのことはない、罰する理由を探しているだけだ。

 黙ったまま父につづいて玄関を入り、暗い鏡で腫れてきた自分の顔を見ると、玄関扉の閉まる音と同時に鏡の自分に頭突きされた。手加減のない正人の拳がいちごの頭を打ちつけ、鼻の痛みも足の痛みも一瞬で新しい別の痛みに変えた。職場での不満が踏みつけたチューブ・チョコのように吹き出ていることを察したいちごは、壁に寄りかかって壊れた人形のように身動きせずにじっとした。大げさに痛がったり殴られた頭を抱えたりすれば次がくるのだ。

 玄関での物音で、奥から聞こえていたテレビの音が途切れた。母美鈴はいつもどおり出てこない。

「なんでこんな時間なんだ、半日なんだろう。とっくに帰ってるだろ」

 だが、関係ない。そもそも殴るようなことではない。遅くても、早くても、どちらでなくてもただ殴るのだ。怒りを向けているのは職場か、もし自分で気づいていれば正人自身だ。ほどけたマフラーの血を見ても、うつむいているいちごの顔をさらに横からはたいた。いちごはよけずに打たれもう一度身体を壁にぶつけてしゃがみこんだ。

 DVは三ヶ月ほど続いている。いちごの母美鈴と再婚してから小室正人は最初、いちごを静かに無視しているだけだった。とくにいちごをうとんじるということはなく、手を上げることもなかった。ただ、いちごを家族の団欒に触れさせるというようなことは一度もなかった。生活苦どころではない暮らしから抜け出せた美鈴が、何ごともなく過ごそうとすがるようにしているのをわかっていたいちごは、些細なことでも自分が火元になることだけはないようにしていた。逆に、他に何かできるわけでもなかった。

 ほどなくして、ウイルス騒ぎが始まった。テレワークになった正人は一日中パソコンの前にいるようになったのだが、いつ見ても仕事をしている風はなく、正人の部屋に見えたノートPCにはスクリーンセーバー以外見たことがなかった。二、三日に一度、会話するのが聞こえてきたりするとき、いちごは心臓が跳ねるように驚いたほどだった。夕食どきにパソコンの呼び出し音がすると、正人は口に入れたものを吐き出してまで部屋に飛んでいった。そして五分もすることなく戻り、美鈴に辛辣な態度をぶつけるのだった。正人の気分の浮き沈みは日をかさねるごとにあからさまになっていき、やがて不機嫌を隠すくこともなくなり、家の中が、金魚をのせたまま金魚すくいの”ぽい”を持ち続けているような、なんとなく幼稚な不安定な状態になっていった。

 薄い紙が破れるように均衡を失ったのは、美鈴の妊娠について出生前診断の結果が知らされたことからだった。胎児が健常ではない可能性が五十パーセントだという。正人は堕ろすのを当然のこととして、驚くほど躊躇なく美鈴に不満と苛立ちを並べた。「自分の子かどうか」から始まり「お前たちを養う意味」までを説きはじめた。後ろめたさから言い訳がましくなっているのではなく、あきらかに怒りをまき散らしていた。美鈴はいつもどおり、そして最初から決められていたことを受け入れるかのようにただ黙っていた。大人しいとか我慢強いというのとはほど遠い美鈴が、正人の家に入ってからは意見ひとつしなくなっていた。逆に言えば、我慢のない彼女には数年の貧困生活が相当こたえたのだろう。普通の暮らしがどんなものかを知らないいちごより逆に苦しかったのかもしれない。何を言われても黙っている母を見て、いちごは同じようにするだけだった。

 いちごは運命についてなど考えたことなどなかった。祈ったことも呪ったこともなかった。だがいつ頃からか、おそらく自分たちは何か普通にはなれない道の上にいるのだなという風に思うようにはなっていた。テレビのアニメに映っているような、古い時代の黒い重たい蒸気機関車に乗って、すでに決められた、でも自分たちの知らない終着点に運ばれるレールの音を聞いているような気がした。

 出生前診断を境に、正人の精神の小さな傷口から吹き出た濁った未熟な苛立ちは、自分とは違う男との間に産まれたいちごが正常なことに向かっていった。だが美鈴は、日ごとに強さを加えていくいちごへの暴力にも正人を制することはなく、正人のいないところでいちごを気づかうだけだった。

 徐々に悪化していく日々が、さらに加速度的に破綻に向かいだしたのは、正人が発した「離婚」という言葉からだった。美鈴が豹変した。

「いちごは普通だ。これはそっちの子じゃん」

 着火点は美鈴の「産む」だった。美鈴に対する初めての暴力があった。激昂した正人に振り回されながら美鈴は口汚く繰り返した。訴訟、裁判、治療費、賠償金、養育費。何をどこまで知っているかわからない美鈴のわめきに、正人の額にあらわれた血筋をいちごは初めて見た。正人は「やはりそういう女か」と負け犬のように侮蔑をぶつけた。

――俺たちのような人間――

――お前たちのような人間――

 正式でなくとも区役所に勤めていることが正人にとって家庭内での圧倒的な根拠だった。拳を上げられなくなってこぼれ出る無様な言葉に抗し、悪態をつきながら昔の顔になっていく美鈴。いちごは、うつむいている以外すべきことがわからなかった。

 美鈴の正人への抵抗で、いちごへのDVは激化した。弱さから産まれた暴力はとどまる力を持っていないから、すぐに穢く膿んだ虐待になり、やがて殴る者自身をもむしばんでいく。だが、美鈴はいちごが血を噛んでいても目を見ないで囁くだけだった。

「逃げてもいいよ」

 別れるつもりはないのだ。別れることになったら養育費を請求する。お腹の子は人質だった。美鈴は可能な限り糧を得ようとしていた。それぐらい、貧困へ戻るのを脅えていたのだ。ただ堕ろして別れるなどあり得ないことだった。いちごは、正人の青ざめる顔を見て、美鈴を殺すのではないかとさえ思った。だが、正人は狂気をいちごに向け続けて耐えたのだった。

「いくら出るんだ」

 ある日風呂から出たいちごは、障害児への補助金の額を美鈴にたずねる正人の声を聴いた。いつ調べたのか詳しく答える美鈴に、正人が、

「養育費と手当ての両方とも手に入れるつもりで強気になってるんだな。お前に面倒みれると思ってるのか、子供なんか死んでもいいと思ってんだろ、お前」

 と言いだしたため美鈴がエキサイトしてしまい、いちごは濡れた髪のまま出られなくなった。顔を出せば、たぶん最後はいちごが殴られるからだ。

(やっぱりお金もらえるんだ。国から)

 小学校のとき、別のクラスの障害のある生徒を世話している先生がいた。高学年の担任で一度も話したことがないちょっと怖い先生が、生徒を車いすから抱き降ろしたり乗せたりするのが、王子様と家来のお芝居をしているように見えた。

 ”親が特別支援学校に入れようとしているのを、先生自らが連れてこいって言った”

 っていうことを、なぜか生徒がみんな知っていた。だいぶたってから、

「昔はあったけど、今どきあり得ないって言ってた」

 とクラスの子が言った。親から聞いたのだろう。いいことだと言ってたのか、無理なことしていると言っていたのか、いちごにはわからなかった。結局、いつの間にか生徒を見ることはなくなった。もし、先生が正しかったとしたら、世の中は昔より悪くなっていってるということになる。

(うちだけじゃないじゃん)

 いちごは、自分も障害者だったら、お姫様のようにされるのだろうかと考えてみた。だがなぜか、なんとなく、自分はされないだろうと思った。

 湯冷めの寒気がしてきたのに音を立てられず、考える必要のないことを考えながらじっと立っているのがつらかった。


 一旦鬱屈を吐き出し終えた正人は、自分の靴を丁寧にしまうと家に上がった。今日は、正人の声色が家モードに変わるまでに相当時間がかかるだろうが、いちごはいつもどおり動かずに玄関にいつづけた。

 台所の方でさっそく押し問答する声がして、パソコンのキーボードを壊れるぐらい激しく打つような音が聞こえた。直後、大きな音で玄関の壁が揺れ、下駄箱の横の靴べらが倒れた。おそらく正人の暴力が破裂したのだろう。美鈴は声すら出さない。とうとう死ぬまで殴ったのだろうか。いちごはいったん抜いた踵を靴に沈めて、すぐに玄関を出られるよう身構えながら静かになった奥を覗いた。

 台所の入り口付近で寝転がり、メガネがずれたまま天井を見ている正人の頭が見えた。すると、物を踏んで割る音がして、横からあらわれた人影が靴のまま正人の顔をまたいで立った。黒いニット帽と顎マスクの横顔は、蛍光灯が逆光になってよくわからない。モッズ・コートの上から袈裟懸けしたショルダー・バッグに手を突っ込んだままかがむと、バッグの底を正人の顔にのせた。キーボードを打つような、だがかなり大きな音がまた二回して正人が人形のように無機質にゆれた。

 けだるそうに身体を起こした男といちごの目が合った。無言で玄関へ向かってくる男の足に引っかけられて、正人の顔がいちごの方を見た。正人の額から、ミミズのような筋が這い出てくるのが二匹見えた。血だ。咄嗟に玄関ノブを回した瞬間、いちごは襟首をつかまれ後ろへ振り飛ばされると、上がりがまちに足をすくわれて廊下に転がった。バッグが胸に押しつけられた。鉄の塊のような重さでコートに硬い突起物が食い込んだのがわかった。三十歳なかばくらい、二日ほど放置したような中途半端な髭だが、コートの下はスーツだ。死んでいる。いちごは男の目を見て直感的に思った。息も乱さず眠そうな声で、

「奥行け」

 とだけ言った。バッグを押しつけられたまま靴を脱ごうともがくと、男はいちごの胸ぐらをつかんで立たせ、放り投げるように廊下へ突きだした。

 壁に肩をぶつけながら土足のまま進んで、目を見開いたままの正人の顔の前で立ち止まると、胸に真っ赤な大きなしみが今も広がっていた。床にいろいろな物が散らばった台所の流しの前に、口にガムテープを巻かれた美鈴が脱力したまま足を放り出して床に座り込んでいた。恐怖に固められた蝋人形のような美鈴の眼球が動いて、いちごを見た。

 部屋の中へ突き飛ばされた。かなり大きな腹になった母は、床に広げた手の甲からひどく流血していて、流れ出た血が周囲に血だまりをつくっていた。正人の額も美鈴の手も、何かが打ち込まれたのだとわかった。背中を押す突起物に急に冷たい傷みを感じだした。

「何てんだ」

 男の声に、いつでもどこでもしているように、首をすぼめじっとしているしかできずにいると、突起物がさらに食い込んできた。

「何てんだって」

「いちご」

 沈黙があった。名前だと思われなかったのかもしれない。

「いちごです……わたし」

 男はいちごに正面を向かせると、マスクをはぎとり、テーブルの上のガム・テープをとった。テープを口に巻かれ手を打ち抜かれるのだといちごは全身を硬直させた。男はいちごの腫れた顔も血まみれのマスクやマフラーを見ても何の反応も見せず、いちごの両手をつかんだ。無造作にガム・テープが巻き付けられていく自分の両手首を見ながら、いちごは泣き顔になったが、恐怖が勝ちすぎて涙が出てこなかった。あるいはもう出る分がないのかもしれなかった。

 両手を結びつけられると同時に足を払われ仰向けに転がされたいちごは、どこを刺されるのかという恐怖で意識が飛びそうになった。テーブルの足の間から見えた母の顔をすがるように見た。美鈴の瞳は恐怖の矛先が自分から去ったつかの間の安堵の色をしているだけだった。

 男はいちごの上にまたがりいちごのコートをはだけさせ、スカートをたくし上げるとバッグの底をいちごの顔に向けた。汚れた布地の穴から小さな三角形の金属のクチバシが出ていた。

「じっとしてろ」

 小刻みにうなづくと、男はショルダー・バッグを背中に回し上げいちごにおおいかぶさりショーツごとストッキングをかき下ろした。飛び出ようとした悲鳴と絶叫と蹴り上げようとした足の力が、訓練されたかのように一瞬で塊になり身体の奥に逃げ込んで動かなくなってしまった。

 いちごがレイプされている間、美鈴は顔を居間のテレビに向け、魂が抜けた本当の人形になっていた。いちごは、彼女の瞳にちらつく青白い光を見ながら、昔彼女が言った言葉を思い出した。

「苺にはトゲがあるんよ。喰われんようにね。けっこう痛いんだ。コワいんだ、苺ってね」

 美鈴が前の夫、いちごの実父と別れたすぐ後のことだったらしいから、彼女なりに元気づけようとしたのかもしれない。あるいは彼の血を持つ子供に面白くない気持ちがあったのかもしれない。どちらにしても十歳に満たない子供に言う言葉ではない。おかげでいちごはずっと覚えている。

 今、いちごはとげを探した。自分の棘を。すごい硬い強い棘を。

(どこ)

 何でもいい、恐怖をのがれるため頭の中を何かで埋めねばならなかった。

(どこにもない)

 いちごはただ同じ言葉を心に繰り返すしかできなかった。

 頭が低くなったせいか、鼻が重くなり思い出したように痛みがでてきた。痛みで意識を飛ばせるかもしれないと顔に満身の力を集めた。鼻が悪いのに男の息がくさい。テーブルの反対側に顔を向けると正人の死体があった。人形だと思った。自分もだ。テーブルをコの字に囲んだ四体の人形。四十四歳の男と、再婚した妻と、お腹の子と、連れ子と、マイホームの台所で家族揃ってみんな人形になったと思った。

 テーブルの椅子の下に小さな百均のキャンドル・ライトが転がっていた。

(まだあったのか)

 ずいぶん昔、美鈴が突然カップ・ケーキを持って帰った。人から貰ったらしく四個入りのちょっといい箱に一個だけ残っていて、乱暴に扱ったせいで少し崩れていた。

「これ、高いやつだよ」

 粉雪をかぶったような小さな苺がのったケーキがたまらなくうれしくて、あまりにいちごが悦ぶので、美鈴が電池式のキャンドル・ライトを出してきた。美鈴がときどき無駄なものを買ったりする残りだ。四個のうち一つは灯かなかったが、カップ・ケーキの周りに三つおいて、電灯を消して、突然季節外れのクリスマスが始まった。上手に揺れるオレンジの光に囲まれた小さな丸い白い苺ケーキに、いちごのはしゃぎ方が尋常でなくなり、美鈴はいちごが小学校に上がるまで、誕生日でもクリスマスでもコンビニの苺のカップ・ケーキを買ってくるようになった。

 美鈴の母、祖母が言葉をくれた。

「苺の花言葉は、幸福な家庭」

 悦んで祖母の言葉を母に話したとき、母は何も言わず、褒めてもくれなかったのがいちごは不満だった。何も知らず、ただ未来だけを見ていた。だがおそらく今は美鈴と同じ気持ちだといちごは思った。

 キャンドル・ライトに手を伸ばした。電池は切れていた。

 かたい冷たい台所の床の上で揺れる自分の身体は、古い機関車に揺られているようだった。そして、客車ではない窓のない貨車の中だと思った。元々乗車券を持っていない母と一緒に、ずっと貨車に揺られてきたのだと知った気がした。もうすぐ終点だ。

 誰にも求められないまま膨らんでいる美鈴の腹を見た。

(産まれてこられなかったね、あんたは)

 妹のつもりで言ったが、弟かもしれない。美鈴の手の流血は止まり、赤黒い塊になっていた。

(よかったんだよ。うちに産まれてくるなんて、あり得ないし。障害あってさ、うちとか、あり得ない)

 今自分が死ぬ寸前の悲惨の極みを漂っているからか、腹のきれいな丸さは産まれようとわくわくしているようで哀れでもあった。

(そんなに産まれたいん? ま、いいか。わたしはたぶん……)

 レイプの後の死が間近にせまっていた。

(たぶんいないし)

 いちごは、鼻の痛みをもっと呼び出そうと、頭を激しく振りまわした。最後の最後にいちごが助けを求めたのは、痛みだった。


(つづく)


 ここまで読んでくださってありがとうございます。
 note初投稿作です。残り二話、読んでいただければうれしいです。

 一、虫の味
 二、人形の部屋
 三、彩雲
 四、渦の底

 蒼井あぜ


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